第二十三回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「人の運命は全部きまっている」 小林正観 著作

小林正観の場合・・・・・
正観さん曰く、 
 私は、二十一歳で父親にでていけと言われて、家を出ました。
ス-パ-マ-ケットを経営している父が、家業を継げと迫ったからです。それまでの二十一年間、父は私に対して、親の家業を継ぐような意気地のない男になるなと教育してきました。子孫に美田は残さない、それが男というものだと。男はそういう厳しい環境の中で育つものだと思い込んでいたふしがあって、そのように長男の私を育てたのです。二十一年間、それも何千回と言われてきたので、親の家業を継ぐような人間は意気地の無い男なのだと私はおもっていました。洗脳教育されてきたのです。それが突然、跡を継げとという話になった。おかしいではないか、言っていることが矛盾していると反論したら、生意気を言うな、跡を継がないのだったら出ていけ、どなりました。
 父は定年の五年前に早期退職して、退職金でス-パ-マ-ケットを始めました。退職前の仕事は警視庁中野警察学校の教官でした。父は威張って、怒鳴って、偉そうにして、命令して、という人間関係しか知らない人でした。
 もしその時、父がぺたりと正座をして、「私は生涯、子供に頭はさげたことはないけど、今日だけは頭を下げる。この店を継いでくれ、お願いだ」と言っていたら、私は跡を継いでいたと思います。そうされたら、大学をやめてでも手伝ったと思います。
 しかし、生まれる前に、私は絶対に頭を下げない父親を選んだ。どんなに苦しかろうがどんなに辛かろうが、威張り続け、怒鳴り続けて、命令して、言うことを聞かない時には出てゆけと言えば、息子は従うに違いないと思うような父親を選んだ。
 私は何万人という父親たちを見下ろして、この人だったらどんなに困っても絶対に頭を下げない人だから安心だと思って、この人のもとに生まれ落ちた。その必然の結果、私は家を出ることになった。
 その結果、文章を書いて投稿するようになった。その投稿が有料で採用されて、原稿料をもらい、食べられるようになった。在学中に食べられるようになったので、大学を卒業しても就職しないでそのまま物書きを続け、旅行作家としてあちこち旅をした。そして、旅先で人相手相を見るようになり、人生相談を受けるようになり、本を書くようになり、講演をする生活になった。
 家を出て、結婚したのが三十歳。三十三歳で最初に生まれた子供が知恵遅れの障害児でした。その話をどこかで伝え聞いた父は、その後、月に一回ぐらい私のところに食事に通ってくるようになった。それが五、六年続いて、ある日突然脳溢血で亡くなりました。その間、一度も家を出て行けと言ったことに触れたことはない。一回も謝ったことはない。私はそういう父親を選び、そういう人生を選んだのです。それが私のシナリオです。
 そうしているうちに、私の場合、ひどい父親だと最初は思っていたものが、「サラリ-マンではなく、著述業でたべられるようになったのは、父親が追い出してくれたおかげかな、ありがたいと思うようになつた。結婚して子供が生まれてからは、心の底から感謝できるようになっていた。父と子の基本的な状況は何も変わっていないのに、感謝できるようになっていたのです。「喜んで受け入れる」から、「感謝をして受け入れる」ことへ至ったのです。感謝に切り替えることが出来たのです。
 運命はどうもそういうふうに決まっているみたいです。とやかく、つべこべ言う必要がない。
 「全部自分の魂が書いたシナリオどおりなんだ」ということが解ってしまうと、もうあくせくする必要はありません。どんなことにも「はい、わかりました」と言って喜んで受け入れ、淡々とやっていけばいいことになります。

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