未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百四十三回 絶対界 第七章 神霊界 無始終霊子の人間精神に及ぼす関係 拝みは即ち全身浄化の法なり。 浄化せらるれば心は明瞭となる故に、心の病は忽ち治癒するは当然なり。斯くして身魂を清むれば霊又是に和して、赫々たる光明を与ふるは云ふ迄もなし。この姿とならば即ち人間としての任務は、なされつつあるによって前途は明るし テツシン貴尊講義

 ヒロさんの転記したものをここに掲載しています



絶対界 第七章 無始終霊子の人間精神に及ぼす関係   
無始終霊子、不滅母霊子、活動霊子、補助霊子の関係
              テツシン貴尊講義


 諸子は拝みするにあたっても、何事か願望成就のみに囚はれての拝みなるが故に、唯頭のみ下げて斯かる浄化の法を旨とせず行ひつつあるによって、人心の浄化は得られざるなり。 我等の語る拝みとは神に祈れよと云ふにあらず。 雲霧によって塵埃を浄化せよと教ゆるものなり。即ち心を全身に張らせて、その心を次第に中心なる丹田に引き下げて、其によって空間を清めよと云ふに他ならず。是等は頭腹一体の法と名づけて、教主が前巻に教へを授けたること諸子は誤解して、その方法を誤ち居る人多し。 拝みとは特殊のものにあらず。 又頭腹一体とは唯無我の境になれよと云ふにもあらざるなり。 凡て宗教者がこの方法を方便に用いて、却て諸子の心に迷ひを生ぜしめ浄化せしむるにあらずして却て、混濁にをとし入れあることを我等は、遺憾に思ふものなり。宗教的に結びつくれば斯る錯誤多し。 我等が語る法に従へば医学上より見るも決して誤つものにあらず。又精神科学より見るも同様の結果となるならん。 拝みは即ち全身浄化の法なり。 浄化せらるれば心は明瞭となる故に、心の病は忽ち治癒するは当然なり。斯くして身魂を清むれば霊又是に和して、赫々たる光明を与ふるは云ふ迄もなし。この姿とならば即ち人間としての任務は、なされつつあるによって前途は明るし。 是絶対自然の法則なるが故なり。絶対自然の法則には、絶対より相対の方向に向ふと、相対より絶対に帰るとの二種に区分せらるる如く思はるれど、結局は同一にして二つあるものにあらず。 相対より絶対に帰るは、中途自然の法則にして、所謂枝葉より幹に帰りたる修行に他ならずと思はば可ならん。
我等の語るところは、即ち絶対より相対、相対より絶対へと進み、甲の絶対より乙の絶対への方向を指すを云ふにて、諸子の思ふは甲の絶対より相対、相対より又引き返して、甲の絶対に立ち返へると誤認せば過誤なり。
今慈音は比言葉に対して解し難しと語り居るによって、今少し詳細く説明すべし。

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