未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百四十一回 絶対界 第七章 神霊界 無始終霊子の人間精神に及ぼす関係 悪きものを払ふは、魂にしてその魂に、汚れを附着せしむれば、容易に心を清くすることは難し。 魂を清くするには、霊と交はりて一体化し、霊魂一体となりて、魂を汚さざるやうに工夫なし居らば、心の汚れは安々浄化せらるること疑ひなし。 霊魂一体とは、即ち神我一体を云ふなり 諸子は心のみ神に任せて、魂を神に任せざるが故に、通ぜざるなり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています




絶対界 第七章 無始終霊子の人間精神に及ぼす関係   
無始終霊子、不滅母霊子、活動霊子、補助霊子の関係
              テツシン貴尊講義



 故に拝みせずとも神は守り給はん。されば神の道を正しく歩み居らば、祈りなどの必要もなかるべし。修養修行とはむづかしきものにあらず。直き心に化せしめんがための方法なるが故に、魂を直く清く磨きてこれに徹せしむる方法に他ならず。 何を苦んで難行苦行するの必要もなからん。清き心直き心のものは美なるが故に、其美を汚さんとして悪きものの集り来るは、是又相対なるが故なり。故にその悪きものを払ふには、魂よりなすにあらざれば、退散するものにあらず。 悪きものを払ふは、魂にしてその魂に、汚れを附着せしむれば、容易に心を清くすることは難し。 魂を清くするには、霊と交はりて一体化し、霊魂一体となりて、魂を汚さざるやうに工夫なし居らば、心の汚れは安々浄化せらるること疑ひなし。 霊魂一体とは、即ち神我一体を云ふなり。 魂を神にまかせ、神我一体となり居らば、その徳によつて凡ての汚れは排除せらるるによって、法力は従つて自得して学ばずとも行ふことを得るなり。 感謝の心を生ぜしむるも凡ては、神我一体なるによつてなり。前書より語りしは凡て相対性原理に基きて語りたれど、絶対性より見る時は斯くの如き程度に化せられるなり。 学びて法力を得ると、学ばずして法力を得るとの相違は、即ち相対自然と絶対自然の差によつて、斯くの如き差あれど、帰する処は同一なり。絶対性より行ずるならば、学ばずして法力は得られ、相対より見る時は、法力は学ばざれば得られざるなり。即ち心の信仰と魂の信仰との区別あるによって、斯くも隔りあるが如く見ゆれど、帰するところは同一の結果となるなり。故に魂の信仰より、心を働らかす信仰に導く工夫を考究せよ。 然して魂とは何かを発見することに努力せば可ならん。汝、幼き頃学びたる言葉は未だ忘れざるべし。然るに年たけての後学びたる事柄は忘るること多からん。この理に基きて工夫し見よ。然る時は小我をすて、 大我を求めよの教へもさとることを得るならん。


円海が常にこだま会にて語り居る如く、慈音の傍に来りて坐し居らば、其にて諸子は安かるべしと云ひしも、この理なり。慈音は法力を用いずして唯安坐し居れど、 彼の信仰は魂の信仰なるが故に、心は如何あらんとも魂に同化せられて、悩みは清めらるる事を円海は語りしなり。時に応じものに接して、変化するは心なり。されど潜在して動ぜざるものは、即ち魂にして、その魂が清ければ、従って他をも浄化するはたらきを密になし居ることに思ひを致さば、魂と心との在処は従つて解することも得られ、又悟ることも得らるるなり。 泰岳の例又かくの如し。 泰岳が慈音に通ずるも魂と魂との交はりにして、心の交はりにはあらざるなり。諸子は心のみ神に任せて、魂を神に任せざるが故に、通ぜざるなり。 心とは空行く雲の如し。雲ともなり風ともなる故に、光をさへぎりて地に徹せしめざる事多からん。

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