未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百四十回 絶対界 第七章 神霊界 無始終霊子の人間精神に及ぼす関係 「今聞きてすぐに忘るる身なれども、南無阿弥陀仏残る嬉しさ」とか云へる信仰者の例話を掲げたるは即ち是なり。 何事を聞きても心にのみ聞かせ居らば忘るるは当然なり。 されどその中心となるべき阿弥陀と云へるものを、己が魂に迄通ぜしめあるによつて、其は残存してはたらく。 他の事柄は心に任せあるが故に、飛散して影なし テツシン貴尊講義

 ヒロさんの転記したものをここに掲載しています



絶対界 第七章 無始終霊子の人間精神に及ぼす関係   
無始終霊子、不滅母霊子、活動霊子、補助霊子の関係
              テツシン貴尊講義



 我もなく彼もなき信仰、即ち神もなき我もなき、所謂対象物のあらざる神我一体の信仰ならざるべからず。諸子は思ひ出して神を拝す。それは相対自然なり。常に神我一体となり居らば拝みの要なし。諸子はこの理を知るや。ものを知ると云ふは心のはたらきのみにして其が魂に迄、徹するにあらざればさとりとは云ひ難し。 思ひ出すと云ふは心の働きのみにて、魂の働きにあらず。心にて神を拝み、心にて神に接しあるによつて、一時的の交はりにすぎず。 されど其が魂に徹すれば思ひ出したり、又忘れたりするものにあらず。 常住坐臥神と共にあるなり。故に忘るることなければ又思ひ出すの要もなからん。 是を神我一体の境と云ふ。 然して其が表面に通ずる時は同じ相対性にてありながら、神の力は心にもはたらき、又我の力は心にもはたらく。 神我一体となりて心を動ぜしむるによって、同じ相対となりても、絶対の心と相対の心とには、はたらきの程度によって相違あるなり。 自然の道理はすべてかくの如し。是を広く万般にわたって考究せば、同じ自然の如く思はるる事柄にも、従つて趣きを異にする点少なからざるべし。 相対なるが故に、自然を克服したりとか、自然を征服すると云ふが如き言葉を口にするなり。其が絶対性より見るならば、克服したるにもあらず、征服したるにもあらず、即ち自然に順じたる結果となるなり。 諸子の信仰はすべて心の信仰にて行じ居るが故に、さとることを得ざるなり。其が魂の信仰とならば、彼にも通じ神にも徹す。心の信仰は迷ひを深くするのみにて、彼是と思ひ煩ひの生ずるによつて唯動揺するのみ。徹することは難し。 故に魂に通ぜしめての信仰にあらざれば、正しきさとりは得られざるなり。前書にも語りたる如く 「今聞きてすぐに忘るる身なれども、南無阿弥陀仏残る嬉しさ」とか云へる信仰者の例話を掲げたるは即ち是なり。 何事を聞きても心にのみ聞かせ居らば忘るるは当然なり。 されどその中心となるべき阿弥陀と云へるものを、己が魂に迄通ぜしめあるによつて、其は残存してはたらく。 他の事柄は心に任せあるが故に、飛散して影なし。 故に諸子は行ずるならば中心となるべきもの魂に及ばしめ、余事は心に任せおくべし。ここに注意すべきことあり。其は他ならず。悪きものを魂に迄徹せしめおかば、其が残りて悪魔となり、或は鬼ともなる。然る時はその信仰は、転落信仰となりて、悪魔の囚人となる他なかるべし。 悪魔が魂に徹すれば、従つて心は悪魔の働きをなすことは云ふ迄もなし。故に心せざるべからず。我等の語る迷信とは即ち退く信仰を云ふにて、正信とは前進に向ふ信仰を云ふなり。故に退歩するは迷信にして、進むは正信なりと思ふも可ならん。信仰が魂に及ばば、即ち神我一体となるによって、神は汝をはなるるものにあらず。

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