未知日記霊話集 第千二百十七回 絶対界 第六章 神霊界 霊の動静について 諸子の世界には斯くの如き反対の宗教より、生れて悲しみ死して喜ぶ教へと、生れて喜び死して悲しむとの教へが、伝統的習慣的暗示となりて、依存しあることより考慮せば死しても悲しからず。 生れても悲しからざる法も行ひ得るにてはあらざるか テツシン貴尊講義

絶対界  ヒロさんの転記したものをここに掲載しています
更に進んで円満世界を現出せよ
 


 諸子は親を失ひ子を失ひて歎くならん。 されど他人の死に対しては顔を曇らするのみにて悲しみの程度には相違あるならん。肉親に別れて悲しむ、その悲しみを忽ち明らむることを得るや。然らざるべし。 是が時間を経る毎に、漸く悲しみの度はうすらぎ行くにてはあらざるか。瞬間さとりと、時間さとりとには、斯くの如き区別あるなり。 知りながら明らむることを得ずと云ふは、知りて行ひ難きを云ふならん。 他の動物と人間との情愛には、 斯くの如き関係に於て相違あることにまなこを向けよ。 然らずば法は得られざるべし。 執着の法とは是を云ふなり。然るれば悲しみ、死すれば喜ぶと云ふ宗教もあるなり。 生れし時死することは誰にも知らるるところ、生れし時死するを知りて悲しみをきなば、死すれば其は喜びとなるとの教へが、習慣性となりて斯る宗教もなりたち居るならん。 生れし時喜びをくが故に、死する時悲しむは是又法なるべし。時間性の明らめ、瞬間性の明らめとは、是等の点より研究せば微妙なる法は案出せらるるならん。 他の動物は死するも生きるも別段問題とはなさざるなり。 生るれば子を愛し、死すれば其にて終る。然るに人は斯る事をなすことを得ざるなり。是に対して原因は那辺より生じ来りしかを、先づ検討するにあらざれば明らめは得られざるべし。 悲しみても喜びても死するものは死す。是自然の法則なり。自然の法則の曲ぐることを得ざるは是なり。 あるが故に自然に順ずれば、明らめも得られ又さとりも得らるる道理あらん。その道理を知りて考ふれば法は得らるるなり。 生れて悲しみ死して悲む。 是一方的なるべし。生れて喜び死して喜ぶ。 是又一方的なるべし。生れて喜び死して悲しむ。 是又一方的なり。 生れて悲しみ死して喜ぶ。 是又一方的なり。ここにまなこをむけよ。諸子の世界には斯くの如き反対の宗教より、生れて悲しみ死して喜ぶ教へと、生れて喜び死して悲しむとの教へが、伝統的習慣的暗示となりて、依存しあることより考慮せば死しても悲しからず。 生れても悲しからざる法も行ひ得るにてはあらざるか。
今や日本人は古来よりの伝統的習慣性によって、築き上げられたる世の中をすてて俄に外国の命に服さんとなすとも、是を容易に改めて其に服従することの至難なるを見ても明らかなる如く、習慣性のさとりを得たるものに対して、俄に切那的のあきらめをなさしめんとする事の至難なるを、体験しつつあるにてはあらざるか。他国の様に従はんとなすとも、法は容易にうなずけるものにあらず。されば是等に関して聊か語らずば正しきさとりは得られず。 又棄執着のむづかしきことも従つてうなずかるるならん。さとるが故に、法は得らるるなり。法あるが故に世は治まる。 是は三宝界の法則なれば、何かそこに一つの補いなくんば、世は正しき治まりを持続することは至難なり。この理より察すれば三体四立の法則に従へば、三体の世界は危険を伴ふ。然るに四立の法則に従へば、世は全く治まることの理も、明らかにうなずかるるならん。 三宝界にては争ひは絶ゆることなく、是を四立の世界に化せずば、全き望みは得られざることは明らかに知らるるならん。今我かく教へ居る時、教主曰く、四立の法則にても世は全きとは云ひ難し。故に正しきさとりを得させんとならば、三対四立を順序として理解し、更に進んで円満世界を現出せよと語りをけよと、命ぜられたれば是に従ひて語りおくべし。

×

非ログインユーザーとして返信する