未知日記霊話集 第千二百十八回 絶対界 第六章 神霊界 霊の動静について 他家に縁附けて喜ぶも、神の許におくりて安らかならしむるも事は一つなるべし。されば悲しむに足らず。喜びて可ならん。 物事は斯くの如し テツシン貴尊講義

絶対界 巻之二 第六章 活動霊子(仮称)と補助霊子(仮称)について


 


絶対界   ヒロさんの転記したものをここに掲載しています。

 すべて物事をさとらんとせば、考へのみにては得らるるものにあらず。考へとは感じかたを変へるの意味なれば、即ち心の動揺なり。 心の動揺してはさとり得るものにあらず。 動揺せざる不動心となるにあらざれば、動揺は益々激しくなりて不変の境涯に入ること難し。 好める酒を止めんとして尚捨て難きは心の動揺なるが故なり。 死したるものに執着して涙を流し、その影を追ふも心の迷ひなり。迷ふは心の動揺する故なるべし。道理と知りながら其に順ずる事を得ざるは、心の動揺にして正しき明らめを得たりと思ふも、是又心の動揺なり。 動揺せざる地点に到達して、初めてその全きを得るなり。 さとらんとするも凡ては順序なり。順序に従って歩を進むるにあらざれば、目的の地点には達し難し。釈迦キリストと雖も小児の時代はありしなり。 順序に従ひて解脱することを得たるなり。世人の世界は理論のみにてはおさまるものにあらず。 唯理窟となるにすぎざらん。 諸子は娘を他家に嫁入らせて安心なし、且つ喜悦を感じ居るに不拘、其が死したる時嘆くは何故ぞ。 我子を神の許に或は仏の許に嫁入らせたりと思ふならば、喜悦安心するにてはあらざるか。 さりながら斯ることを我等が語るとも、唯脳裡をかすめて聞きのがすのみ。 嘆きは止まらざるべし。
 他家に縁附けて喜ぶも、神の許におくりて安らかならしむるも事は一つなるべし。されば悲しむに足らず。喜びて可ならん。 物事は斯くの如し。考へかたは唯明らめをなさしむる方便にすぎず。然るに悲きものは悲しかるべし。其には何かわり切れぬもののあることに心せざるべからず。即ち考へとさとりとには斯くも相違あるによってなり。 悲しみを喜びに変へ、喜びを悲みに変へたりとて、其は変ぜしめたるのみにて相対関係の相違に他ならず。 故に正しきさとりと云ふは悲しみもなく喜びもなき底のところ迄、至らしめずばさとりは得られざるなり。 所謂不去不来の境地即ち縁附けたるにあらず。 死なしめたるにあらず。 すべてが我に止まりて、はなれざる不動の位置に迄達せしめずば絶対とはならざるなり。 好める酒をすすることあたはざるも是又相対の関係にて、心の動揺の迷ひに他ならず。 好むと好まざるとが相対よりはなれて、一つのものにまとまれば、是等の明らめは簡単に行はるるによってなり。即ち用いざりし昔に立ち返へれば、其にて好めるものを簡単にすすることを得るなり。悪きものならば斯くしてすつべし。悪からぬものならば捨つるにも及ばじ。悪と知りながら悪き行ひをなすは、悪を知らざるが故なり。政治家は善政を表面にして、 悪政を行ふもの多し。学者宗教家商人など等々すべてこの類が多からん。 是等は悪を行はんがための方便に、善を用い居るが故なり。故に諸子の世界は表裏の関係ありて、相対なるが故に、平和は得られざるなり。諸子はこの理を知るや。 「商人は損をしながら倉を建て」と云ふ狂句を我等は耳にす。断る行ひは政治家宗教者を問はず、この類の例はすくなからずあるなり。斯る事にて年月を如何に重ぬるとも、安楽の世界が現出すると思ひもよらず。嘆はしき事にてはあらずや。諸子は我等の説を聞きて修養修行せんと思ふならば、先づ是等の事柄に対して深く思ひを廻らしをきて、然してその原因をたしかめて後、更に教への意味を考ふべし。然らずば唯脳裡をかすむるのみにて、正しき不動のさとりは得られざるべし。修養修行するは我なりとの念をすてよ。 我修行するにあらず。彼修行するにあらず。 修養修行には彼我の区別はあらじとの思ひを貯へて、行ぜずば正しきさとりは得がたし。この理を知るや。 まぎらはしき言葉もて語り居れど是には、深き意味の含まれあることを諒とせよ。 空しく聞きのがすこと、又見のがすこと勿れと注意なしをくものなり。

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