未知日記霊話集千二百十回 光明論 下巻 巻の十 汝等一度正しき信仰に入らば汝自ら神よりはなれんとなすとも、霊光は決して横道に迷はすことをせざるべし 教主寛大講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    

 欣情よ。汝は何かを求めてその験を手引きにして信仰の度を進めんと願ふ心をはなれよ。汝、始めて慈音を見たる時、慈音の態度は何かぎこちなさを感じたるならん。現在の慈音はそのぎこちなさは消えて柔らかく女性の如くなり居るにすぎるならん。慈音にも欣情と同様の塊はありしが漸くその壁は外されたるなり。あやまてる信仰は却て危険を伴ふ。汝等一度正しき信仰に入らば汝自ら神よりはなれんとなすとも、霊光は決して横道に迷はすことをせざるべし。
 今一言、欣情に伝へをく事あり。近頃汝は折節自らが智慧にて想像せざりし考への浮び出づる事あるならん。其は即ちセイキョウが汝に教へし言葉なり。故に斯る時セイキョウは我に語ると知るべし。汝はセイキョウの声が外部より己の耳に伝ふるものと思ふによって、如何に修養すとも霊の声は聞かれず。我には験あらずなど愚にもつかぬ思ひに心を暗くするなり。是セイキョウが汝に来り汝を救ひ居るなり。世を救ふの意味も是によって諒解するを得たらん。されば一度正しき道につきたらば迷ひ迷はされざることに気づくと共に神は迷はせ給はざることもあはせ悟るに至りたるならん。

 汝等この教へを悟り得たらば静かに汝等が世相を観望し見よ。従来ながめ居たると大いに異なる姿を自覚して、今迄我等も斯る経路を歩み居りしかと、隔世の感に打たるるならん。其と同時に粟を生ずべし。其だけ汝等の修養修行の上に効果は現はれ居るなり。又今迄は自らは世間に対して行ひ居たりし事に気附きて顔を染むるはづかしさを感ずるならん。されば汝の心中に今後の考へを如何にめぐらさば可ならんかに深く思ひを致すべし。
盲者の老人足腰弱き慈音を見ては危き所を歩まば、無条件に手をとりやるならん。其にもまして危き道を危き足取りにて歩み居る世間の人の手を無条件にひきやらんとは考へざるか。是情と愛の衣より現はるる上着の慈悲の験にて強固なる信仰の姿の威徳は斯くせざれば止まざるなり。
 元来動物性本能には情(なさけ)愛の素質を有すれども、慈悲は人間以上の者に有する特性なれば、是を育つるには修養と修行を要す。是には実際を体験することに依て得るにあらざれば想像のみにては満足すべき成功は得られざるなり。如何に悪逆非道の人なりとも愛と情を知らざるものあらんや。さればこそ彼等悪人は我身を満足せしめんがために悪事を犯すなり。彼等悪人は自己愛自己情を深くして他を顧みざるのみ。愛と情の本能は悪逆非道の者には却て濃厚なり。故に彼等一度めざめて心を翻し是に慈悲が加はらば大善良大慈悲者と変化するなり。俗言に大悪は大善なりと称するもこの理なり。さればミキョウ等は大悪となるとも小悪となる勿れとの意味を伝へたるも決して大悪人となるべしと、云ひしにあらざることも察するを得るならん。帰するところは行ずるもの何れにもつかぬ半端の行をなすなかれと教へたるなり。俗言に生兵法大怪我の基と云へる例に等しく行半に終れば却て身を損ふ憂あれば善にもつかず悪にもつかざる人は済度するには困難なればセイキョウ等は斯く教へたるなり。
 斯くの如く悪人にも情、愛の本能を有すれど慈悲心に欠け居れば自己の愛情(あいなさけ)のため悪を犯すに至るなり。されば愛と情のみにては世は保たれず。是には大慈大悲の心を養成してここに始めて整ひし人間の姿となる。是等三要の威徳を拡大強化せしむるには即ち信仰の力によらざるべからず。三要と信仰を高くするは霊光なり。然してここに自由の天地は開らかる。自由を得ざれば己のみ救はるるとも他を救ふを得ず。他を救ふを得ざれば自由ならず。救はざれば慈悲を欠く道理あるべし。自己慾望の情(なさけ)自己本位の愛は即ち動物性本能の愛情なれば、自己慾望自己本位よりぬけ出でてすべて棄却せば残るは本来の愛情ならん。故に我は汝等に既に死したりと教へて生きたる屍となし、情と愛のみ残したり。其に加へて人間本能の衣、慈悲の本心に立ち帰らしめんと企て居るなり。何となれば汝等は自己要求の愛、情に囚はれて大切なる人間本位の慈悲心を忘却して是をはるかに遠ざけ居るによって本然に立ちかへらしめんとはなしたるなり。

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