未知日記霊話集千二百八回 光明論 下巻 巻の十 反省せよ。日本国民 !  日本とは日の本、即ち大和(だいわ)の国ならずや。慈音は日本人なるによって斯る言葉を用い居るにあらず。正しく我の言葉なり。現代の日本は親兄弟を失ひたる孤児に等しく、まこと温かき愛に飢え居るに等し 教主寛大講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    

 とかく日本人は珍らしき事を喜び、そのものの未来に及ぼす影響などを考へず、無暗にとり入れて流行せる傾向あり。故に熱し易くさめ易き国民なりと愚弄せらるるなり。熱し易く醒め易きとは馬迦者よ、智慧なき者よとの代名詞なるに気づかざるは情なきことならずや。日本人の中にも山間僻地の無智文盲と嘲らるる人の中に神の道を正しく渡る人も多し。斯る純真無垢の人迄も無智の者なりとして、一鎌に刈り入るるを我等は見るに忍びざるなり。あやまてる近代の教育は完全なる人を養成するにあらずして濁れる人を養成なし居るなり。何日かは古代の日本を恋するに至らん。然れどもそは汝等日本の俗言、「六日菖蒲に十日菊」となるのみ。葬式終りて医者話となるのみならん。
反省せよ。日本国民 !  日本とは日の本、即ち大和(だいわ)の国ならずや。慈音は日本人なるによって斯る言葉を用い居るにあらず。正しく我の言葉なり。現代の日本は親兄弟を失ひたる孤児に等しく、まこと温かき愛に飢え居るに等し。されば他より恵を受くるも感謝は口先に止まり、心の底より感謝するを得ざるはまことの愛を知らざるによる。即ち人は我を恵むは当然なる義務なる如く考ふるに至りたるは正しき情(なさけ)を知らざるなり。然らば是を如何にせば救ふことを得るかについていささか語りをかんとす。
 世の中に守銭奴吝嗇(りんしょく)と罵られ、強慾非道と爪弾きせらるる人と雖もその人の語るところを聞けばみな其々に理窟あるものなり。然して彼を憎み爪弾きなす人達は彼より遠ざかるかと云へばさにあらずして彼を罵りながら彼に接近するにてはあらざるか。その上彼に召し使はるる多くの人すらあるにてはらざるか。さのみ世の中より忌み嫌はるるならば彼は孤独の人となるべきに然にはあらざるは如何なる故か。其より世を救ふ道を考へざるべからず。即ち彼に召し使はるるものが何か彼より受くる恵ありてならん。又彼に近寄る者も其によりて己に利するところあるによって謗りながらも近寄るの止むなきに至るなり。然りとせば彼にも情は何処かに潜在して慾より来るものを何かの形によって救ひ居るなり。斯くも世の中を害する如く思はるるものに於ても、救ひの手となりて蔭より或は裏面に現はれ居るなり。仏の情に救はれずして鬼の情に救はれたるならんか。鬼の情は寸時に消滅して後に大なる苦痛は襲ひ来る。されど情は鬼の情にても救ふ力あり。故に絶対なる情及び愛慈悲の力は如何なるものをも救ふべき力を有するは語らずとも察するを得るならん。汝等が世界の救済多くは鬼の救済に属することの多きを我等は知る。曰く孤児院曰く養老院曰く救世軍曰く何々院等々すべてあはれなるものを囮として計画者の私腹を肥す。是鬼の救済ならずや。汝等せめては仏の救済たれ。さりながら仏を囮にして鬼の救済に陥るなかれ。


注 
六日の菖蒲十日の菊(読み)むいかのあやめとおかのきく
近き日、汝に来る人あらん。その人は学徳兼備なる人物なれば援助を受くるも差支なからんの意

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