未知日記霊話集千百九十四回 光明論 下巻 巻の十 愛と執着とは雲泥の相違なり。されば省みて己は己に愛を与へおるかを反省し見よ。我の言葉はあやまりならざる事にうなずくならん。されば真の情を知らずして真の愛を知ることを得んや。愛と云ふことについていささか語らん 教主寛大講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    

 「我身を愛する如くすべてを愛せよ」と称へ居れど、事実は我身を愛し居らずして帰するところは我身に執着なし居るに過ぎざるを我は知る。愛と執着とは雲泥の相違なり。されば省みて己は己に愛を与へおるかを反省し見よ。我の言葉はあやまりならざる事にうなずくならん。されば真の情を知らずして真の愛を知ることを得んや。愛と云ふことについていささか語らん。
 即ち愛とは情より生じて其が拡大強化せられたるあらはれなりと見て差支なし。大和の延長なればなり。和する心は情にして是が次第にむつみて変ずるは愛なり。されば汝等の考へと我の説明とには相違あることに気づきたるならん。汝等は愛するによって情は生ずと考へたるに、我は情ありて愛は生ずと語りたれば全く表裏の関係となりたり。故に汝等は情も愛も知らずと我は語りしなり。汝等今迄の習慣性観念よりはなれて我説くところを翫味せよ。然る時は真の道理を認識するを得るならん。汝等にして真の情真の愛を知るならば汝の肉体に於て常に隙をつくり居るや。又食物を摂取するに何故口にのみ味はせて全身に味はせざるか。眼又然り。耳鼻又然あるなり。是真の情真の愛を正しく認識なし居らざるあらはれなりと知るべきなり。例へば飢えて将に餓死に瀕したる者の食するを見よ。斯る場合には口に喰はしめずして一時も早く腹を充たさんと食の味すら意に止めず、夢中にあさるにてはあらざるか。是腹にのみ喰はしめたるなり。即ち腹にのみ思ひ遣りありて他を顧みる暇あらずとせば、真の情真の愛を知らざる故なりと云ふも敢て理窟にはあらざるべし。我かく語らば汝等は云ふならん。「口より腹に入れざれば全身には営養を運ぶを得ざれば速に全身の苦みをまぬがれしめんとて早食するは、全身に情愛を有すると思ふなり」と。さてさて愚なることを云ふものかな。斯る言葉を吐く以上は尚更情も愛も知らざるによりてなり。我、汝等の情は刹那的と語りしも是なり。もし汝等にして常住坐臥自分の心身に真の情真の愛を与へ居らば斯る危期に直面すとも、周章狼狽して決して偏頗の状態をなすものにあらざるなり。真の情あらば全身に及び其が拡大延長して衆に通達す。我、汝等に説きたる汝等は情を知らずして執着なりと、教へしも真なりとうなずくところあるならん。即ち局部的思ひ遣りは切那々々の苦みによって生ずる執着なれば、是が除去さるればその事柄は忘却して又他に転ずるに過ぎざるべし。即ち「のど坂すぐれば暑を忘るる」とか云へる情も愛も真にあらざるなり。考慮せよ。工夫せよ。

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