覚者慈音76 大霊界  無言詞界の大要について  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                             NO 36
                        
  
無言詞界の大要について      その1     
                    教主寛大 講述


 大凡全宇宙は終始なきが故に、その中に現出したるものその悉くが増減変化して種々様々に、その形状を異にすとも死滅することはあらざるなり。即ち根元に立ち返へれば無始終となりてもとに復すにすぎず。是即ち全宇宙の無始終なるが故に凡ては無始終なり。ここに霊魂不滅の理論は明らかとなる事に思ひを廻らさざるべからず。無始終霊子の結合に依ってその作用が変化して、種々様々のものを現出せしめ、その現出したるものを更に改造して無機物より有機物と、次第に変化を与へ、その有機物が更に変化して霊化するに至らば、ここにはじめて目的は達せられて不変不滅の境地に達す。是即ち無言詞界に運ばるると云ふなり。所謂完成したる魂がその全きを得て無言詞界、即ち神の世界に帰りてここに於て更に又、第二第三階の任務に服する事と知らば可ならん。故に此居に達しなば言葉無くして言葉を現はし、姿なくして姿を現はすことも自由自在なり。よって我等は是を名づけて無言詞界と仮称なしたるなり。真実の絶対とはこの境地を云ふ。されば人類と雖も進化してこの居に達せずば真の自由は得られざるなり。例へば一個の動物を造り其に魂を入れて、其ものを自由自在に活躍せしめんと思はば、忽ち是を造り得る方法すら知る事を得るなり。されど是を造るには順序ありて、その順序を誤たば組織は不可能となる。是等は絶対より相対にうつる間に過誤を生ずる故に、達成すること難けれど、あやまたずば思ひのままに完成することも得らるるは、全宇宙の自然に順応するによってなりと知らば頷くところあらん。されど是等は方法を理解するのみにして、己行はんとしてなし得らるるものにあらず。その能力を備えたるものは即ち神の力を措いて他にはあらざるなり。我等は神の能力の一部を許されてこれにあたり居るにすぎざるなり。その悉くを具備しあるものは神を措いて他にはあらざるなり。我等の神と称し居るは即ちこれなり。
 この事あるによって皆其々に異なれる任務を有す。是等を分野と云ふなり。地球上におかれたる人類に於てすらその悉くがみな等しからず。其々異なりたる天分を有するならん。其と同様に天界にも亦各方面に渡りて定められたる任務は、種々様々に異なりあるによって、下界より上り来るものの中より選抜して適所適材に配分して、皆其々の任務に服さしめ居るなり。無言詞界に至ればとて空しく手を束ねて遊び居るもの一人としてあらざるなり。汝等衆人の世界の如く疲れたりとて物見遊山に耽る如き暇は、天界には一人としてあらざるなり。この事を思へば汝等衆人は遊びたはむれて暮し居りては、天理に反すとは思はざるや。疲れしとては眠り、陰鬱なりとて物見遊山に耽る等の余裕を、有する汝等衆人は仕合わせものならずや。呵々。勝手気儘の行動とは是を云ふなり。是動物性本能を発揮し居りて、人間性を知らざる故なり。 

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