未知日記霊話集千八百十二回  帰途案内記 NO228 普通一般の世人にては到底望まれざる事なり。斯るむづかしき行をなさんよりは、仕事の傍ら常に油断なく拝みなし居らば、其にて塵埃は積載することなく常に清浄となりて、望は叶へらるること難きにはあらざるなり。心暗きは塵埃のたまり居る故なり。明るき心は清除せられてすがすがしくなるならん  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の四
最終の巻 
二流界、仮称霊空界
天職と人職について
セイキョウ貴尊 講述
                     


 我等聞くところによれば世人の中には天職と云ふものはあらじと語り居るを耳にす。果して人類には天職と云ふもののあらざるかに考慮を払ひ見よ。天職と云ふもののあらじと考ふるは誤謬ならんと気附くならん。天職を知らざるは魂を知らざるが故なり。常に心のみ働かせ居る人は、法をのみ用い居るによって天職を知らざるなり。魂をはたらかせて心の法を用ゆるならば、己に架せられたる天職は発見する事を得るなり。心のみはたらせ居りては生涯を法にて終る。斯る人は天職を全うしたりとは云ひ難し。個性を知ると云ふは魂を知るにあらざれば得難し。されば天職を全うせんとならば、先づ己の個性を知るにあらざれば天職は得難し。魂を知りて心の法によってその魂を引きのばさば、法術共に一体化するによって、ここに始めて天職を全うすることを得るなり。世人の中には天職にあらざることを天職と思ひて生涯を終ること多し。
 例へば親より命ぜられて余儀なくその事を学び、己が意志に添はざるまま生涯をその事にて終りし人を、其は天職を全うしたりと誤解する事もあるなり。是は天職にあらずして人職を全うしたるなり。我等よく見るところなるが一つの事柄をなし居りて中途より他の方面に走りて、其が大なる功績を残す人を見る。是等は大概天職に合ひたる事多し。されど己が天職を最初より守り居て中途より其を放棄し、他の事をなして成功する人もあり。斯る両方面にわたる事の多きが故に何れが天職か何れが人職かの区別をなすことを得ざるなり。さりがらたとひ天職人職何れにもあれ成功したる人は、先づ己の任務はたしたる人にて、是等は人としての任務を果したるが故に天理に合ひたる人なり。されど己の天職を知らんとして転々として業を換えて定まりたる事をなさず、生涯を迷ひに迷ひて終る人は天理に反したる人なり。斯る事は世人の中には非常に多し。己の個性を知らんとして却て生涯を無為に終らす如き愚を、敢てなさざるやぅ注意せざるべからず。たとえ天職にもあれ人職にもあれ、最初より志をたてたる事を終生変更せざる底の人は、天理に順じたる人と見なして可ならん。いささか余事にわたりたる感あり。もとに復す。
 二流界には斯る誤ちたる行ひを敢てするもの一人としてあらざるなり。其は神を知るによってなり。世人の是を知らざるは魂に背をむけ居るが故なり。二流界の人の如く神を知らずとも魂を知り、更に進んで霊を知る事によって、はじめて天職人職の区別を明らかにすることを得るなり。親の心、子は是を知らず。子の心親又知らざるは世人の世界の習慣なり。子にして親を知ることは難けれども、親にして子を知ることは易し。然るに其すら知らずして世を過し居るにてはあらざるか。是を修養の道にて云ふならば魂にして心を知らず。心にして魂を知らず。所謂仏は法を知らず。法は仏を知らざるの関係とならば、仏と法は分離せらるる結果とならん。又魂と心とは同様の関係となるにてはあらざるか。魂と心別れ居りて何としてかは肉体をも支ゆることを得んや。

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