未知日記霊話集千八百九回  帰途案内記 NO225 霊を知る事によって始めて、世人の世界は安楽となるなり。即ち霊魂心身の姿とならば、ここに始めて世人の肉体も心も魂も完全そなはりを整へるが故に、居ながらにして天国極楽を知ることを得るなり。欣情の語りたる如く肉体の汚物は排出する事を得れど、心の汚物は如何にして排出するやと、慈音に語りしを聞く。形ある肉体の汚物は排除する事を得るに引き換え、心の空なるものの汚物を排出することを得ざれば、混濁して何物をも見ること聞くこと難からん  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の四
最終の巻 
二流界、仮称霊空界
セイキョウ貴尊 講述
                     


 心の持ちかたとは方法を云ふにて、法の如何によつて悩みは排除せらるる故なり。魂なくんば法を知ること難く、心なくんば肉体を整ふることも難からん。故に仏教者は仏法僧の三宝に帰依せよと称し居るなり。不動心とは法の心を指すにあらずして、魂の心を指すなり。魂の心動ぜざれば法の心は正しき故なり。江橋はこの理を知らざるが故に、円海は教へんとなし居るなり。いささか余事にわたりたり。もとに復すべし。
 先にも語りし如く接続根とは肉体と魂を結ぶ心を指したることは、世人も既に承知なし居る筈なり。心は法なるが故に、或は魂に、或は肉体に養分を送る法として是を接続根と云ふ。故に心は法なり。肉体のうち所謂神経と名づくるものを僧として、仏法僧の三宝を考へなば、一切衆生とは肉体のすべてを指したりと思はば、すべての意味は解せられる道理あらん。一切衆生すべては仏なりと教へ居るも皆この理に基く。禅僧の何某曰く、『白隠禅師坐禅和讃』「衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の他に仏なし」と説き居ることも既に承知なし居るならん。汝等の如く肉体を有する間は接続根は法に位す。されど二流界の人種の如く、汝等の心に相当するものが肉体に化せらるれば、即ち魂は接続根となり、心は肉体となり、霊は仏になる関係として考究せば、二流界の人種は魂を法となし心を僧となし、霊を仏となしての生活なるが故に、世人の世界と二流界の世界とは、全くそのすべてが異なり居ることは察せられるならん。

 霊は神を知る。故に二流界ともならば神を知るによって、すべてを神に依存して任務をはたし居るが故に、真の安楽の世界を現出なし居るなり。然るに世人は仏法僧の三宝を知れど未だ霊を知らざるならん。斯ることにては到底神を知るの置位に、到達なし居らざることに心せざるべからず。霊を知る事によって始めて、世人の世界は安楽となるなり。即ち霊魂心身の姿とならば、ここに始めて世人の肉体も心も魂も完全そなはりを整へるが故に、居ながらにして天国極楽を知ることを得るなり。欣情の語りたる如く肉体の汚物は排出する事を得れど、心の汚物は如何にして排出するやと、慈音に語りしを聞く。形ある肉体の汚物は排除する事を得るに引き換え、心の空なるものの汚物を排出することを得ざれば、混濁して何物をも見ること聞くこと難からん。心によって肉体を清むることを得るならば、魂に依て心を清むる事難きにはあらざる筈なり。ここに何かの工夫はあらざるか。
註  



『白隠禅師坐禅和讃』 より転記



衆生本来仏なり 迷える心を持つ
わたしたちも
本当は 仏なのです
水と氷の如くにて それは ちょうど
水と氷のようなもので
水を離れて氷なく 水がないと氷が
できないのと 同じように
衆生の他に仏なし わたしたちを ぬきにして
仏は ありえません
衆生近きを知らずして わたしたちが
仏であることを 知らずに
遠く求むるはかなさよ あちこち 探しまわるのは
むなしいことです
譬えば水の中に居て それは、たとえば
水の中にいながら
渇を叫ぶが如くなり 水をください!
と 叫んでいるようなものです
長者の家の子となりて 本当は
とても幸福なのに
そのことに気付かず
貧里に迷うに異ならず 「わたしは不幸だ」と
嘆いているのと
同じことです
六趣輪廻の因縁は いつまでも
苦の世界から
抜け出すことが できないのは
己が愚痴の闇路なり 自分の境遇を
くよくよと 嘆くからです
闇路に闇路を踏みそえて その 長い長い
闇を通り抜けて
いつか生死を離るべき 生きる・死ぬ という
想いから離れることが肝心です
それ摩訶衍の禅定は そのために
「禅定=こころを落ちつける」
という行いは
称嘆するに余りあり わたしたちにとって
大きな支えとなることでしょう
布施や持戒の諸波羅蜜 他人への施しや
自身への いましめなどの
行うべきこと
念仏懺悔修行等 ご先祖さまを おまつりすること
自分を反省すること
その品多き諸善行 さまざまな よい行いがありますが
皆この中に帰するなり それらはみんな
「禅定=こころを落ちつける」
の中に含まれるのです
一坐の功を成す人も ひととき、心をおちつけて
静かに坐った人は
積みし無量の罪ほろぶ 悩みごとなど
実はなかったんだ、と気付くのです
悪趣何処に有りぬべき 悪い出来事など
いったいどこにあるというのでしょう
浄土即ち遠からず 極楽はいま、ここにあるのです
辱なくもこの法を ありがたいことに、
この教えを一たび耳に触るる時 一度でも 耳にしたときに
讃嘆随喜する人は 深くほめたたえて信じ、うけいれる人は
福を得ること限りなし かならず幸福を手に入れることでしょう
いわんや自ら廻向して ましてやみずからひたすらに祈り、お唱えをして
直に自性を証すれば 本来の自分を感じとることができれば自性即ち無性にて 生きるとか 死ぬとか男だとか 女だとかの区別なく已に戯論を離れたり その瞬間、すでに愛着や煩悩からはなれているのです因果一如の門ひらけ 私たちは今、仏と一体になったのです!
無二無三の道直し この ただひとつの真実を歩んでいきましょう
無相の相を相として 真実には 本来決まった形がないことを感じ
往くも帰るも余所ならず どこに行ってもそこにやすらぎをみいだしましょう
無念の念を念として こだわらず、心おだやかに毎日をすごせば
謡うも舞うも法の声 行いが そのまま仏法となりまわりの人を救います
三昧無礙の空ひろく 心は澄み切った大空のように自由に どこまでも広がり
四智円明の月さえん 煩悩を離れた清らかなお月さまが輝いています
この時何をか求むべき このような時、ほかに何を求めるというのでしょう
寂滅現前するゆえに 心が静まり、究極のやすらぎが得られた今、
当処即ち蓮華国 この世がそのまま極楽でありこの身即ち仏なり この身が
そのまま仏なのです

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