未知日記霊話集千八百八回  帰途案内記 NO224 我等の語る心とは赤子の不動心を云ふなり。医学上にては是を潜在意識と称し居るならん。我等は是を魂と云ふ。故に心とは法なりと教へしは是なり セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の四
最終の巻 
二流界、仮称霊空界
セイキョウ貴尊 講述
                     


 兎角人間は命令に服従することと、又応じ難き事との区別あるならん。されど命令せられたる事と、依頼せられたる事とに関しても亦、其意味に対して応否の区別も従って多かるべし。是等は心の持ちかた如何によるとは考へざるか。同じ言葉に対しても命令の意味と、依頼の意味とには相違あるならん。其等も心の持ちかたの如何によって定まる事多かるべし。病気に対して医師の言葉は命令と聞きて応ずるや。或は依頼と聞きて従ふやを考ふる時、医師の言葉が禁煙せよとか禁酒せよとか云へる言葉は、命令と聞え又禁煙禁酒を願ふとの言葉ならば、依頼と聞こゆるならん。一言の言葉に対して心に感ずる程度の相違は大なるべし。感応導交するとはわづかの相違にて、結果に於て大なる隔を有す。斯くせよとの言葉と、斯く依頼すとのわづかの言葉が、結果に於て大なる誤差ある事に留意せざるべからず。命令せらるると依頼せらるるとには、考ふれば一つなるべし。然るに己に感じ来るところには何か一種の趣きを異にするにてはあらざるか。命令は己彼より眼下に見下されたる如く感じ、依頼は己を高くせられたる如く感ずれども、その事に於ては同様なるべし。是等に関して己自ら自尊心と云ふ考へを有せずば、命令と依頼とに関しても何等遜色はなき筈なり。
 世人は平常語り居る言葉に、人間は感情の動物なりと称し居るにてはあらざるか。感情の動物と云ふは心の持ちかたの如何を指したるならん。心が或一定のところに安住なし居らば決して動ずるものにあらず。確かなる位置に心ををきて如何なる事に対しても、動ぜざる底の修養をなし居らば其にて迷ひ迷はさるることなかるべし。円海が江橋に与へたる不動心とは是を云ふなり。聊かの事に関して或は怒り或は喜ぶ等々是不動心にあらず。不動心とは一大事に遭遇すとも微動だもなさざる底の居に安んずるに、あらざれば真の不動心とは云ひ難し。赤子に対して如何に罵りの言葉を以てすとも、彼は怒らざるべし。是が不動心なるが故なり。されど赤子に痛みを覚えしむれば忽ち泣く。痛み無くならば忽ちもとに復す。然して彼は平然たり。ここに何か新らしき発見はあらざるか。赤子は飢ゆれば泣きて食を求む。是心なるか。或は肉体の慾求なるかの区別を知るには、必要なる修養の参考として考究せざるべからず。我等が語る魂心の区別は是に依て判明すとは思はざるや。医師の語るところの心とは、即ち小児のいたみ或は飢餓を訴ふる如きを心と云ふにて、我等の語る心とは赤子の不動心を云ふなり。医学上にては是を潜在意識と称し居るならん。我等は是を魂と云ふ。故に心とは法なりと教へしは是なり。先にも語りし如く魂は仏、法は心、肉体は僧として説明をなせしも是なりと知らば可ならん。

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