未知日記霊話集千六百七十二回  帰途案内記 NO92 慈音と雖も此地に来りてより既に五六の魂を救いたることを我等は知るなり。されど彼は人に語らず。天災地変によりて、俄かに生命をおとしたるものの多くは斯くの如き類多し。宗教信者の中にも不慮の災害にて落命したるものと雖も、魂の緒のつながり居る間は後生を知らず セイキョウ貴尊講義


知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 92
セイキョウ貴尊 講述

                    
 されば死とは如何なるものかと云ふことの明らめを正しく知るものにあらざれば、魂の緒の切れざる間は浮住界にすら到ること難し。世の中の幽霊伝説などはその大抵は魂の緒の完全に切断せられざるものに多し。子の愛に惹かされて死したる母は、その子と云ふ生存者に己が魂の緒の結びつきて、国土をはなるるあたはず。故に幽霊談も敢て迷信とは云はれざるなり。斯くの如き母は魂の緒切断さるれば、忽ち浮住界に到る。所謂幽霊と云ふも或一定の時間にすぎざるなり。是を宗教者は執念とか怨念とか称し居るにて、古来は斯る伝説の多かりしが近来に至り斯る事の少なきは、何故かとの疑ひを生ずるならん。是にはいささかの理由あるなり。現代人は幽霊などあるべきことなしとの教へを強くし、古来の如き信者は少なくなりたるによって、死せるものの魂の緒は結びつく処を失して近代人には、其影を見る事あたはざるのみにて有るものは有るなり。故にいたって親密なる間柄の人には、その幻を見することあり。其とても幻影錯覚なりとして取りあげざるが故に、止むなく影を消し居る迄にて、迷ふものは彼方此方とさまよひ居るなり。
 所謂現代人は種々の文化より、斯るものを遠ざけ居るにすぎざるなり。慈音と雖も此地に来りてより既に五六の魂を救いたることを我等は知るなり。されど彼は人に語らず。天災地変によりて、俄かに生命をおとしたるものの多くは斯くの如き類多し。宗教信者の中にも不慮の災害にて落命したるものと雖も、魂の緒のつながり居る間は後生を知らず。さりながらその信仰信者は魂の緒の切れざる間にも信ずる力を失はずば、軈ては魂の緒の切れて浮住界より如意界へと移され行く力を有す。故に彼等の魂は軈ては選魂所に運ばるることもあらん。故に後生を知るに不如。
 よく我等聞く処なるが不慮の災害にて落命したるもの、手当によって蘇生したる時、彼は曰く、「我死したりと思ひしに蘇生したり」と云ふ言葉を洩し居ることなり。世人は是等のことより人は死するを知らずと云ふことなからんにと思ひ居るならん。我、死したりと思ひしにと云ふが如きは、正しき死を知らざる故なり。不慮の頓死などは一時の睡眠にすぎず。さむれば夢よりさめたると同様なればなり。是等は手当によって蘇生し、更にその負傷等の程度によって更に死にをちいるならば、其時こそ死と云ふものの如何なるかを覚ることを得るなり。さればこそ蘇生したるものの物語りは、信ずることなかれと宗教者も語り居るなり。是真の死にあらざるが故なり。

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