未知日記霊話集千六百六十回  帰途案内記 NO80 天理を知ると云ふは即ち神を知るにあらざれば、完全なる組織は得られじ。神を知ると云ふは即ち神智を得るにあらざれば、明らむること難きは当然なり。神智を得るには信仰なくしては、得難きことも推して知ることを得るならん セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 80

イキョウ貴尊 講述
                    
 汝等の信仰はあやまりたる考へを以て進み居るが故に、地上の引力に囚はれて空間を危ぶむが故に、天界の引力に対して導かれんとの考へを有せざるなり。故に汝等の信仰は地面を這ひ廻る蛇の如き信仰にて、空間に伸び行く事を好まざるが故に、伏鼠信仰或は雑種信仰となりて平面的となり、立体とはならざるなり。例へば汝等個人を一枚の水田と見なして考へ見よ。その水田に米を作らば、多くの収穫は得らるるに不拘、其水田に種々様々雑多の種を蒔かば望みの収穫は得られざるべし。恰も其と同様の信仰にて今日甲の神を信じ、明日は乙の神、又明後日は丙の神と種々雑多の神を信じ居らば、生涯その水田の全からざる如く、信念も同様に全からずして終るは、是平面的にして立体的ならざるが故ならん。是を雑種信仰と云ふ。伏鼠信仰に於ても亦然り。箱の裡に伏せられたる鼠は右往左往這い廻りて、彼方此方をかぢり廻りて居るうち、力尽きて倒ると同様の信仰にては、平面的にして立体にあらざるが故に、目的を達せずして倒るるは是又理なるべし。春には春の花をつくり、夏には夏に相当する果物と云ふが如き短き間の考へにて、諸々の物を作らんより一年一度の収穫にても、多くの米をつくるに不如とは考へざるか。もとより一枚の水田をあたへられたるは、米を作らんがために与えへられたる自己の分野にして、その水田に他の物をつくるとも、其は本分にあらざるが故に、立派なるものを稔らすことを得ざるなり。斯くの如く誤ちたる信仰をなし居る人は多し。山林を開拓して田畑となして次第にひろげ居らば、樹木は失はれて水害の憂を引き起し、果は開拓したる土地迄稔りを得ずして終る如き結果を、招き居ることを我等はよく知る。斯くなりて更に周章狼狽して、又も植林をなすなどの愚さをなすうち、人命は次第に失はれ行くにてはあらざるか。是分野を知らざるが故なり。天理を知らざれば、斯くの如き失敗は多し。人智の至らざるは天理を知らざるが故なり。天理を知ると云ふは即ち神を知るにあらざれば、完全なる組織は得られじ。神を知ると云ふは即ち神智を得るにあらざれば、明らむること難きは当然なり。神智を得るには信仰なくしては、得難きことも推して知ることを得るならん。信仰は正しからざれば得らるるものにあらず。伏鼠信仰雑種信仰にては到底望は達し難し。心せざるべからず。伏鼠信仰雑種信仰によって世を渡り居らば、神智は得らるるものにあらず。神智なくして天界に入ることを得ざるも皆、愚なる人智のはたらきを旨として進むによつて、平面的に大地を這ひ廻る蛇の如くなりて、終らんことに思ひをはせよ。如何に速度早くとも、地上を這ひまわりては地球を廻転する外、空間にのび行く力は具はらざるべし。

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