未知日記霊話集千四百四十六回 大霊界 無言詞の働きは空に属するか その2 物を食するにあたっても心に食すると、魂に食するとの相違はきはめて大なり。泰岳は常に魂にて食し、他の徒弟は心にて食す。故に泰岳は他の徒弟より少なき食事にて、養分は他より二倍の効果をもたらせ居るなり。彼は常に云ふ。我は殺生することは好まじ。喰ひてものを生かす。普通人は喰ひてものを殺す。殺すと生かすの相違は雲泥の差あらん。心に喰ふと魂に於て喰ふとは、食する点に於て生かすと殺すとの相違あるなり  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                         NO129  無言詞のはたらきは空に属するか、虚に属するか      その5
                                                 教主寛大 講述


 例へば武術家は剣に執着し囲碁将棋に凝る人は勝敗に執着し、ために業技工に囚はれて其ものに耽りて、己の天分を粗略にす。是等はすべて執着の心なれば、無益の時間を空費するにすぎざるなり。されど武術は剣に囚はれず、武術によって己が魂をみがき、囲碁将棋にこる人は勝敗に囚はれず。その道によって魂をみがく方向に用いなば、修養修業の徳は現れて魂の光明は輝き、念と智慧が益々加はることは、是即ち心と魂の相違にして、執着と思慮との区別は是等によって考へをめぐらさば明らかとならん。勝敗に囚はるるは心にして執着となり、魂に重点をおかば思慮を深くする法となるによって、ここに一段の工夫なかるべからず。近代運動競技は盛となりたり。されどその運動によりて、人間性の修養の糧になし居る人は稀にして、その多くは技術に囚はれ居るものきはめて多し。是等も皆執着と思慮との相違よりおこる現象なれば慎まざるべからず。
 余事兎に角我等常に語り居る如く人の言葉を聞きても、空しく聞きのがす事勿れと教へ居るは、空しくとは心にのみ聞くこと勿れ。すべてを魂に聞かせよと云ふの意味なれば、その心して常に人の言葉と雖も心に聞かず、魂に聞かする底迄の修養修業ありたきものなり。物を食するにあたっても心に食すると、魂に食するとの相違はきはめて大なり。泰岳は常に魂にて食し、他の徒弟は心にて食す。故に泰岳は他の徒弟より少なき食事にて、養分は他より二倍の効果をもたらせ居るなり。彼は常に云ふ。我は殺生することは好まじ。喰ひてものを生かす。普通人は喰ひてものを殺す。殺すと生かすの相違は雲泥の差あらん。心に喰ふと魂に於て喰ふとは、食する点に於て生かすと殺すとの相違あるなり。
 或時泰岳が路傍にて一人の若者が小児を殺さんとなし居るを見て、何故斯ることをなすやと尋ねしに、彼の者曰く「我父は難病にて命旦夕に迫る。医師の言によれば小児の生肝を服さしむれば、治癒すと云ふによって生肝を取らんとなし居るなり」と。是を聞きて泰岳は直ちに小児を奪ひて逃げ去りしと云ふ。然して彼の若者を法力に依って縛り上げ、彼が自由を妨げをきたりと云ふ話を聞きたり。
 汝等諸子は是を聞きて如何に考ふるや。其泰岳は法力を用いて彼の者の父を助け、然して彼を縛りし法力を解きたることは語る迄もなし。一人の老爺を助けんとして、一人の小児を殺害せば其罪や重し。日本支那の伝説には斯るためしは数々あるなり。我等は是を聞きて苦々しく思ふなり。一人を助けんがために一人を殺す。斯ることは天理に反す。宗教者の悪戯は斯くも愚なる教へ多し。わけて日本の武士道には己が責を全うせんがために、腹を切りて申訳せんとか云ふ如きは、言語道断慎むべきことにこそ。又も横道に入りたり。もとに復すべし。
 汝等諸子の世界は空を尊ばず、逆に虚にのみ囚はれがちなるが故に、すべての法則は空しくして真ならず。神の法則(おきて)は空なるが故に、正しくして偏頗の行ひは一としてあらざるなり。心の世界と魂の世界は、暗黒と光明の相違にて、汝等諸子の世界は暗黒より暗黒へと、迷ふが故に定まらざるなり。我等常に語り居る如く天理に従へよと教へ居るは、天理とは光明の輝きを指すにて、光明より光明へと進みなば迷ひはあらざるなり。汝等諸子の世界の人類が悉く魂を旨として生活をなし居らば、永久平和は保たるること疑ひなし。心の世界は危ふし。故に平和は望むまれざるなり。動物性をはなれて人間性に進めよと語り居るは、空しき心を棄てて頼むべき魂を求めよと云ふことなり。

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