未知日記霊話集千四百四十四回 大霊界 無言詞の働きは空に属するか その2 盲者に己が在所を知らしむるには、音を以てせざれば盲者は迷ふなり。盲者に送るには音ならざるべからず。汝等諸子は盲者に等し。故に我等は手を打ちて、汝等諸子に在所を知らしめ居るなり。手を打つと云ふは即ち汝等諸子に無言詞を送り居ると知らば可ならん。手の鳴る方に来らば、我に縋ることを得る筈なり。音も光明なり。我等が諸子に手を鳴らすは即ち他力の意味に合ふ。燭を点じて我の在所を求め来るは、即ち自力の法に合ふと知らば、自他の区別も明らかならん  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界              巻の三                         NO127  無言詞のはたらきは空に属するか、 虚に属するか  その3                                         教主寛大 講義


 仏教の新しき道を広めたる親鸞は曰く「我、弥陀を信じて地獄に堕ちるとも、決して弥陀を怨むことなし」と、彼は弟子達に語りしと云ふ。信念はこの程度迄強くするにあらざれば、弥陀を知ること難からん。信念とは燈燭の如し。信念の燈燭を以て 弥陀の在所を探りて其処に至らば、弥陀の姿は明らかに見ゆるならん。慈音と我の関係に於ても是と同様なりと知るべし。迷ひを抱きつつ信仰するは念の燈火暗き故なり。念の燈火を強うして信を進むれば、物の在所は明らかに照らさるる筈なり。信なくして信を得んとするは念を起さざるが故なり。念を起さぬと云ふは燭を持ちながら点火せざる故なり。盲者に己が在所を知らしむるには、音を以てせざれば盲者は迷ふなり。盲者に送るには音ならざるべからず。汝等諸子は盲者に等し。故に我等は手を打ちて、汝等諸子に在所を知らしめ居るなり。手を打つと云ふは即ち汝等諸子に無言詞を送り居ると知らば可ならん。手の鳴る方に来らば、我に縋ることを得る筈なり。音も光明なり。我等が諸子に手を鳴らすは即ち他力の意味に合ふ。燭を点じて我の在所を求め来るは、即ち自力の法に合ふと知らば、自他の区別も明らかならん。暗中の光明とは帰するところ音と光なるべし。盲者の光明は音を以てし正眼者の光明は光を以てせば、すべては迷はざるべし。無言詞と云ふは、光にも通じ、音にも通ず。即ち一切悉くに通じてあますことなき底の言葉を、無言詞と云ふなり。我この事を認めさせある時、慈音曰く、「教主の教へは、水風呂に入りて下より薪を以て、温められ居る如き感じす」と。面白きことを云ふものかなと我は笑ひたり。然り、汝等諸子は浮き世にありて彼是迷ひ居るは水風呂に入り居ると同様なり。我は風呂たきの役目をなし居るに他ならず。諸子をして風邪ひかぬようになさんとはかり居るに等し。呵々。
 汝等諸子は幼き時母の手に抱かれて種々様々のお伽噺を聞かされ、長ずるに従って面白き小説等を聞きて喜びを感じ居たるは、即ち空によって智識を延ばさんとする方法の一端にして、其が学問によって空より実を得んとする方法なれば、汝等衆人は空を追い求めて際限なく継続なしつつあることに心づくならば、物事を考ふるとは智慧によって、空の中より何物かを求めんとする方法なれば、考ふると云ふも心なるべし。心のみにては唯表面の事のみ知るにすぎず。されば一層思慮を深くして魂に迄及ぶにあらざれば、明案は浮び出づるものにあらず。所謂窮すれば通ずの処迄思慮を深くするに至って、はじめて明らかなる思ひが表面に現はるるに至る。
 虚と空の一体化とは心と魂の同化したる姿にして、心は常に不安定なれば虚より虚へとさまよふ。されど魂は空なるが故に迷はず。空の偉大なる処を迷はず追ひ求めて、何ものかを発見せんとするは魂なり。魂の考へは空なるが故に迷はず、確かなるものを発見せしむる力を有す。心の考へを捨てて魂の考へに任するならば、虚と空の一体化は得らるる道理をよくよく考慮せば可ならん。心と魂を一体化せしめて考へたることは誤ち少なし。されど諸子は常に心の考へのみに委せ居るによって虚頼みとなり居るなり。信仰は心に任せをきては虚となる故に、魂の信仰にあらざれば空とはならざるなり。魂の信仰に入らば確かなるものを握り得る力を有す。故に迷はざるなり。
 思慮なき人は物事を即座に取り決めて、其がために誤つこと多からん。是等は早合点の人に多し。早合点するは心の作用なり。思慮深き人は心に感じたる事を、魂に迄及ぼすが故に過失は少なし。

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