未知日記霊話集千四百四十回 大霊界 無言詞の働きは空に属するか その1 古来の伝説に見らるる如く、一心岩をも貫すと云ふ言葉の如き、信あらばなしてならずと云ふことなし。信ずる力の強き人は念の力はきはめて強し。信なくして念は生ずるものにあらず。善悪邪正を嫌はず、信ずる力の強きものは念も従って強し。故にすべてに通ず  教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                         NO125  無言詞のはたらきは空に属するか、虚に属するか    その1                                                    教主寛大 講述



 無言詞を受け入れて是に対して信ずることを得ば其は空に属す。然して信じ難き場合は空虚何れにも属せずして迷ひとなるのみ。何となれば信ずることを得るは既知にして、信じ難きは未知に属するが故なり。虚を空に帰せしむれば未知は変じて既知となる。今迄語り来りたる我等の考へを理解せば、其は空の信仰となるによってなり。信じて疑はざるは確定したるによって、生ずる現象にして既知となるなり。故に信仰は空ならざるべからず。虚頼み信仰は未知なるが故に、徹することなく唯迷ひを深くするのみ。欺かるるとも信ぜよの教へはテッシン。セイキョウが語りたる言葉にして、その教へは正しいと思ふや。或は正しからずやと思ふや。すべてに迷はず何事をも信ずる力を強くして、其れによって何かを求むるならば必ずや通ず。故に我に云はしむればテッシン。セイキョウの言葉は正し。欺くと云ふも欺かるると云ふもすべては空なり。二と三を加ふれば五となる。是は諸子には信ずることを得るならん。されど数を知らざる小児に対して、このことを語るとも何なるかを知ること能はざるべし。されど五となると云ふ言葉を小児は耳に残しをきて是を信じるが故に、長ずるに及んで確定の信を得るなり。確定の信仰には既知と未知との関係より或は迷ひ、或は信ずるが如き相違あれど、信と云ふに対しては、たとえ虚にもあれ空にもあれ空虚何れに不拘、信と云ふにかはりなし。己が智慧の優劣より判断して信とか不信とかの区別をなし居れど、信ずると云ふに何等変はりあらざるなり。諸子は唯信ずる力を養ひ居らばそれにて修養の道は開らかるるなり。又其信の力によって己が望は達せらるるなりと承知せよ。故にテッシン。セイキョウは欺かるるとも信ぜよと教へたるは正しと云ふなり。
 我、かく語らば諸子は云ふならん。例へば我一つの事業をなさんとして其に信ををき居らば、必ずや目的は達せらるるかと。其等には二種あり。一つは確定したる事を一つは不確定の二つに区分して、不確定を信ずべきか確定を信ずべきか。兎に角何れかに信ををかざるべからず。一つの事柄を達成する迄はすべては空虚なるべし。又望を達する迄は未知にして既知にはあらざるなり。故にその確定不確定の両者共に信ずる力あるならば、何れか確定したる方向に信をむくるにあらざれば目的は達し難し。この望は達成するか、達成せざるかの心ならば其は信にあらず。確定不確定に不拘、必ずや通達すとの確信を得る底のすぐれたる信ならば必ずや、何れの日か望は達せらるべし。思ひ惑ふは信の力乏しき故なり。迷はざる程に信の力すぐれなば、如何なる事と雖も達せずと云ふことはあらざるなり。古来の伝説に見らるる如く、一心岩をも貫すと云ふ言葉の如き、信あらばなしてならずと云ふことなし。信ずる力の強き人は念の力はきはめて強し。信なくして念は生ずるものにあらず。善悪邪正を嫌はず、信ずる力の強きものは念も従って強し。故にすべてに通ず。善悪邪正共に信ずる力を以て念を深くせば、如何なる事と雖も通ぜずと云ふことなし。されど結果に於て相違あるなり。善因は善果となり悪因は悪果となる故に、信仰は善を択ばざるべからず。
 不確定信仰を確定に迄到達せしむることを信仰と云ふなり。汝等衆人人と人との交はりにて互いに信頼する事は、交はりの度が加はるに従ってその力も増すことは、其は確定信仰より力の度を加ふるによって、念の力が相互にはたらきて互いに通ずる結果となるなるなり。確定信仰と雖も念の力を強くせざれば、はたらきの度もきはめて鈍し。されど人と人との交はりと雖も、頼み難き結果となることもあらん。互いに約を結びたりとて、一方が死したらば其れにて終る。故に頼み難きは人心と云ふ、言葉さへ現はれたるならん。如何になるとも永久変らざるものを、信ずるにあらざれば頼みて甲斐なし。ここに於て神とか仏とか云ふ、無形のものを頼みて其と互いに約を結ばんとすることを教へたるは宗教者なるべし。眼に見えず耳に聞こえざるものを信ずるには、念の力を増すにあらざればすぐれたる信仰は、得られざることも推して知らるるならん。信じ難きものを信ぜよと云ふはもとより理なきことにて、信ぜよと云ふ指導者の方が却って無智者なるやも計られざるなり。其は唯一種の方便にすぎざるが故なり。神を信じよと教へられても、神を見ることあたはざれば信ずることの得ざるは当然なるべし。然しながら念の力が加はり行くに従ひてここにはじめて、神を知ることを得るなり。

×

非ログインユーザーとして返信する