未知日記霊話集千四百四十一回 大霊界 無言詞の働きは空に属するか その2 初め慈音は我の言葉を聞きて其が我の言葉なりしか、或は己が智慧のはたらきなりしかに迷ひを抱きて、疑ひの思ひに化せられつつありしなり。是は今後諸子にも体験することあらん。神の教へか、己が錯覚かと云ふ点に至って迷ふなり。迷ふと云ふは念の力うすきが故なり。念の力のうすきは信仰の度加はらざるによって、生ずる現象に他ならず。信を厚くし念を強くせば、神と汝は密着して離れ難き極致に達せん  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                         NO126  無言詞のはたらきは空に属するか、虚に属するか    その2                                                    教主寛大 講述



 汝等衆人もし昔生まれたらば、アメリカと日本との間に互いに話を交はし居ると聞かさるるとも、其は偽はりならんと思ひて耳を籍すものなかりしならん。然るに現在事実に於てなされつつあるによって確信は得られ、現今の人は疑ふものあらざるべし。神と人との間に於ても亦同様の関係あるなり。慈音は我等と語りつつあるに対して、今は迷ひを起さず却って当然なることと信じ居るも、是みな虚が空に変じたることを念の力によって、得たる結果に他ならず。宗教信者が死後空中楼閣を作りて、その所に住するも是みな、念の力がすぐれたるによる。確定不確定に不拘一旦思ひたちて是に心をうつすは、既に信仰に入らんとする一歩なり。然して一歩々々信の力が加はるに従って念は増大す。例へば高山の頂上に尊き人の住居なし居ると聞きて、その人に面会せんとはかりて麓より次第に、山頂に登ると同様なり。一歩登れば一歩だけその人に近づきつつあるに等し。歩を重ぬるは信仰にして、念とはその目的物に近よりつつあると同様の関係なりと思はば、信と念の意味は諒解することを得ん。山上に尊き人ありと聞きたるのみにて足を運ずば、対面することは難からん。是と同様にて神ありと聞かさるるとも、神に合ふ迄歩を運ばずば、対面することは得がたかるべし。汝等衆人この理をさとりて信仰を進めよ。神に願いて苦みを免れんとて、社に日参して願だてなし居る人も多からん。
 其願望が叶へらるればここにはじめて神と対面なしたるなり。願望叶へられざれば叶へらるる迄足を運ばば、必ず望は達せらるること疑ひなし。何となれば念の力が増大なすによってなり。虚を空にとけ入らしめて結合するを、念力と云ふなり。汝等衆人糊を以て紙をつなぐ。その時ねばりの弱き糊ならば、密着することはあらずして直にはなるるならん。ねばりの強き糊ならば、つながれたる部分は完全に結合して離れざるべし。念力とはねばりの力なりと思ふも可ならん。我は慈音に語り、慈音は欣情に語り、欣情は筆をとりて諸子に示す。是によって衆人は理解することを得るも皆、信仰と念との力がはたらきて、我の教ゆる無言詞が慈音に於て現はされ、ここに有言詞となりて欣情に伝はり、欣情は筆を運ばせて諸子に示めす。是みなもとを洗へば無言詞が源なることは察せられるならん。その無言詞を表面化せしむる力は、信仰より得たる念力に他ならず。
 初め慈音は我の言葉を聞きて其が我の言葉なりしか、或は己が智慧のはたらきなりしかに迷ひを抱きて、疑ひの思ひに化せられつつありしなり。是は今後諸子にも体験することあらん。神の教へか、己が錯覚かと云ふ点に至って迷ふなり。迷ふと云ふは念の力うすきが故なり。念の力のうすきは信仰の度加はらざるによって、生ずる現象に他ならず。信を厚くし念を強くせば、神と汝は密着して離れ難き極致に達せん。即ち虚を空に化せしむるが故に、力の程度は斯くもすぐれ行くなり。是進行なり。進行は信仰に等しければ諒とせよ。進み行かば信仰の度は加はり、逆行すれば退歩の度が加はる故に、空が虚に変ずれば是は退歩なり。所謂信仰を離るるによってなり。先にも語りたる左せよと云ふ例話に見らるる如く、教へられたるまま左へ左へと進みて、遂に目的を達せしに不拘、右せしものが転落して魔界に堕ちたりと云ふは、即ち信仰の度強き者は進み、信仰の度弱き者は退歩すと云ふ教訓なり。虚を空に進めたるものと、空を虚にかへしたるものとの結果に於て、斯くも相違あることに着眼せば、自づと信仰の法を悟ることを得るならん。 

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