未知日記霊話集千四百三十三回 大霊界 空の研究と実の研究 その6 厳戒の辞とは 我等の教ゆる厳戒の辞は口に出さずして、心にとなえよと教へをきしも空、虚一体なさしめんがための方便にして、心に称へ魂に称へ霊に通ぜしむることの、一大事を教へんとして斯くは語りたるなり。されば口に出すもよし。されど虚(から)言葉となすなかれ。思ひあまりて思わず口外する底の処迄到らしめずば通ずるものにあらず。念仏題目に於ても亦同様の関係あるなり。文字言葉に囚われることなかれと云ふはこの理なり。即ち厳戒の辞は光に化せしめんとせば光となり。温度を保たせんとせば又保たすことを得ると承知せよ。即ち自由自在の思ひを通ぜしむる簡単なる方法なりと思ひて、常にこれを忘れず怠らずなすべし  教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                          NO118        空の研究と実の研究       その6          厳戒の辞                                      教主寛大 講述
最重要のテ-マです


 他力の念仏自力の題目等は、一方的にして通ぜずと語りしに対して厳戒の辞は自他一如の法なれば、すべてに徹すと語りたるに対して、諸子は疑問を抱くならん。念仏も言葉なり。題目も亦同様にして、厳戒の辞も是に等しと考へなば、そは道理を知らざるが故なり。されば是等に関していささか説明なしをかずば、無言詞の一大事を知ること難きによって語るべし。
 先にも語りたる如く空の中に虚あり、虚の中に空ありと、説きたるは此理を知らしめんがためなり。我等の語る空とは動を意味し、虚とは静を意味すと思ひて聞くべし。故に空を静なりと思はば、静は静の静に属する関係となると承知せよ。例へば空を飽和するものは静なりと思ふならば、静を飽和するものは空なりとの考へをはなれて、空を飽和するものは静なりとせば、静を飽和するものは即ち静なりとの思ひにて、我話を聴くべし。
例へば汝等諸子が日々使用し居る魔法瓶などは、空気をぬき去りて真空となしたるが故に、中に入れたる湯水等は同じ温度を長く保ち居るならん。真空となしたるは、即ち動を静に変へたるなりと思ひて、空と虚の説を聞くべし。電球に於ても亦然り。真空なるが故に光を生ず。空に返へせば光は消滅す。是等も皆空と虚の関係なりとして聴くべし。他力念仏を空と考ふれば、虚は是を飽和せんとなし、又他力念仏を虚なりとせば、空は虚を飽和せんとなすによって一方的となる。自力も亦同様の関係あるなり。一方に偏れば自他共に同様の関係となる。空は虚をさへぎり、虚なれば空はさへぎる故に、通ずる力は鈍し。
厳戒の辞は空,虚の如何を問わず、是を通過するはたらきを有し居るが故に、空にもをかされず、虚にもをかされずして、自由に是を通過す。この理は空、虚一体となりたる力あるによって何れにも偏らねば、通力は自在なりと思ひて練習すべし。文字言葉にては現はす底の念仏題目は、口先念仏口先題目にすぎず。是空にもあらず、虚にもあらざるが故に、通ぜざるなり。故に虚(から)念仏虚(から)題目となるなり。
我等の教ゆる厳戒の辞は口に出さずして、心にとなえよと教へをきしも空、虚一体なさしめんがための方便にして、心に称へ魂に称へ霊に通ぜしむることの、一大事を教へんとして斯くは語りたるなり。されば口に出すもよし。されど虚(から)言葉となすなかれ。思ひあまりて思わず口外する底の処迄到らしめずば通ずるものにあらず。念仏題目に於ても亦同様の関係あるなり。文字言葉に囚われることなかれと云ふはこの理なり。即ち厳戒の辞は光に化せしめんとせば光となり。温度を保たせんとせば又保たすことを得ると承知せよ。即ち自由自在の思ひを通ぜしむる簡単なる方法なりと思ひて、常にこれを忘れず怠らずなすべし。口先にて称ふる事なく、から念仏から題目となさぬ用心肝要なり。空、虚一体化してはじめて実を現はす。所謂厳戒の辞は無言詞を引き出す動力にすぎず。無言詞を求めてその無言詞より更に有言詞となし、それによってすべての迷ひを晴さんとする方法の言葉にすぎず。是等は他に意味を有せざるなり。斯く語らば厳戒の辞などは称ふるの要もなからんと思ふならん。されど事実は然らず。是には尚も深き意味を有す。厳戒の辞を全く我物となすにあらざれば、その意味は言葉にては到底理解することあたはざるなり。何となれば無言詞なるが故なり。無言詞なるが故 にすべては通ず。斯かることを語るとも汝等衆人到底納得することあたはざるなり。又今は是を知らずともよし。軈ては心の底より是を覚ることを得ん。疑ふことなく唯然あるかと聞きおきて可ならん。されど称ふる事を怠ることなかれ。怠りては何等の価値なし。道理を知らずとも唯然あるかと思ひて称へ居らばそれにてよし。道理を知りても称へずば何等の価値もなきなり。汝等衆人は道理を聞きて物事を納得せんと考ふるが故に、正しきさとりを得ること能はざるなり。たとえ迷信にもあれ、行ひに移して効なくんば捨るも可なり。効あらば迷信も正信となる。汝等の世界の迷信妄信は既に汝等の世界に於て、体験したる事柄を教へ居るが故に、迷信正信の区別は明らかとなり居れど、我等の世界に於ての事柄は、何一つとして知らざる諸子なれば、汝等の世界の迷信妄信にあてはめて、是を研究せんとなすともそは及ばざるなり。諸子は最早第二段階に移されて是より我教へを受くる身なれば、迷信正信の区別を考ふるの要もなからん。我等は無益なる迷信を汝等に授くるものにあらず。正しき教へをなして、汝等諸子を引き上げんとはかり居るなれば、疑ひを捨て聴聞すべし。

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