未知日記霊話集千四百三十二回 大霊界 空の研究と実の研究 その5 厳戒の辞とは 厳戒の辞即ちチ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、セン のわずか十六音程に含まれ居る無言詞の法力は、如何に偉大なるかを知ることを得るならん。もし是を知らずば知る迄称へよ。然することによって優れたる法力は汝等のものとならん。慈音がミキョウに導かれて我講義を聞きたる時、千国人はおろか億国人も集まり居たるなり。 然るに語りし我は一人なりしに不拘、全部の者に通ぜしめてあますことなかりし点より見るも、無言詞の感応は如何に勝れたるかは察するを得るならん  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                          NO117        空の研究と実の研究       その5          厳戒の辞                                      教主寛大 講述
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 兎に角空の力が種々様々の作用をなすによって、汝等の智慧は増減変化なすことは、最早諸子にも理解なし居るならん。されば第一段階を終りたる汝等は、更に進んで二段階の教へを受けて、更に前途を明らめざるべからず。この講義はかって慈音が亀とアキレスの問題をミキョウにたづねたる時、ミキョウが慈音を誘ひ来りて我はこの講義をなしたり。されど其頃の慈音は理解することを得ず、茫然と聞き流し居りたるによって、我等の意中を汲むことあたはざりしなり。(昭和一四年頃慈声注)今この講義をなすは二度目にして慈音にとりては再びこれを耳にす。汝等諸子は第二段階に移されて、此説を理解する人は幾何もなからん。よって我等は可成平易に語り聞かすべし。文章とか文字とかの意味にあまり深く拘ることなかれ。無言詞の教へは文字言葉に囚はれ居りては理解することは至難なり。十人よれば十人の思ひ異なる。故に其等の十人に対して異なる思ひを一定限度迄知らしむるには、言葉によりて話し得るものにあらず。ここに於て十人は十人に対して、無言詞を以て其々の思ひの異なるを、一に帰せしむるにあらざれば、我等の目的は達し難きが故に、唯盛気を送りて十人は十人共に同様の考へを起さしむるやぅなすにあらざれば目的は達せざるなり。
 例へばここに千人の人あり。その千人が悉く界を異にする人種の集合なりとして、このすべてに、理解せしむるには如何なる言葉もて、伝ふべきかを先づ考へ見よ。一国人に通ぜしむれば、九百九十九人には通ぜざるべし。されば一つの口にて千界語を語るそなわりはあらざるならん。千国人に千国の言葉を語る底の学者も亦あらざるべし。文字にて知らしむることは尚更困難ならん。慈音がミキョウに導かれて我講義を聞きたる時、千国人はおろか億国人も集まり居たるなり。
然るに語りし我は一人なりしに不拘、全部の者に通ぜしめてあますことなかりし点より見るも、無言詞の感応は如何に勝れたるかは察するを得るならん。今我是を語り居れど、慈声にのみ認めさせ居るにはあらず。他界のものに対しても是等の教へをなし居るなり。故に感受力より文章の点に於て異なることは多けれど、帰するところ同一の結果となるなり。故に文字文章に囚はれ居りては理解は容易に得難し。されば諸子は文字文章に拘泥せず、読む人の心の相違にまかすべし。例へばこの事柄は文字の上には斯く示めされ居れど、是はこの意味ならんと思ひて、脳裏に泌みこませ居らばそれにてよし。我等の説に対して言葉咎め文字咎めをなすことなかれ。又文章の巧拙を論ずること勿れ。所謂月を見て見る人の心に任すと同様に此書を見ば可ならん。是には一種の法力備へおきたるによってなり。慈音は我に対して日本の現今用い居る口語体にて語れよと要求なしたれど、我はこれを斥けたるたり。そは法力を以て此書を読む者の心を明らかにせしめんとする老婆心より出でたるによってなり。円海が常にこだま会に於て語り居る講義にすら皆其ぞれの聴取者に異なりたる感銘を与へ居るにて、語る言葉は一なれど感ぜしむる相違は、聴く者をして一種の感じを与へ居ることは、是即ち法力を用い居るによってなり。汝等この理を知るならば厳戒の辞即ちチ、シュ、キュ、ジョウ、ギョウ、コウ、フク、セン のわずか十六音程に含まれ居る無言詞の法力は、如何に偉大なるかを知ることを得るならん。もし是を知らずば知る迄称へよ。然することによって優れたる法力は汝等のものとならん。法力そなわりて汝等の心は、暗黒より次第に光明に化せられるによってなり。我等が語り居る言葉に対して、慈音は彼是思ひ惑ひて、言葉の誤ちを探らんとして苦しみ居れど、我は是を許さず。口をふさぎて語らせ居るなり。口をふさぎて語らすとは、汝等諸子にはその意味理解することを得るや。口をふさぎて語らせずと云ふならば、誰にも理解することを得れど、口をふさぎ語らせ居るなどとは、諸子には到底解し難きは我もよく知る。されど我等は斯かることをなすは訳もなきことなり。眼をふさぎて見せ、耳をふさぎて聞かす等々、決して至難の事にあらず。我等なさんとせばなし難き事もなし得る力を有す。是法なり。いささか話は横道に入りたる如く思ならん。されど是は横道にあらず。即ち無言詞を以てして無尽の法を授けんとなし居るなり。法力そなわりてその力がすぐれ行くごとに、光明の威力は増大し十方世界は明るくなるなり。知らざることを自然に知り得る力は他にはあらず。無言詞によって無尽の法を伝ふるにあらざれば目的は達し難し。仏教者が六字の念仏七字の題目によって往生せしめんとはかるも、わずかの音程にて法力を以て導かんとする術なれど、是等は限度を有す。故に他力自力の区別となるなり。されど厳戒の辞は無言詞無尽法なるによって、限度を有せず、永久不変の法力なれば、はてしなく全宇宙にみなぎりてあます処あらざるなり。是自他一如の教へなるによってなり。自にも属せず、他にも属せず、一体化なしたる法力は、如何に変化せしめんとなすとも、決して犯さるるものにあらざるが故なり。

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