未知日記霊話集千四百二十七回 大霊界 疑は信仰の門 その5 神を恋するは神を招くなり。人間同士の恋は成立することもあり、成立せざることもあれど、神に対する恋は必ずや成功す。汝等諸子は神に恋しては如何、神に恋するは即ち信仰なり。人間同士の恋は片思ひと云ふことあれど、神への恋は片思ひはあらざるなり。必ず成功す。即ち思ひと思ひは空なるが故に、同化するなり。神の思ひは空なり。汝の思ひが空ならば忽ち同化す  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                          NO112
疑ひは信仰の門     その5
教主寛大 講述


 己、初めより知らざることは教へを受けて是を学び、理解することを得て、ここに初めて満足することを得るは一般の習性なるべし。知らざることを知らんとするには、己自らの心より創作して我物となすことは容易のことにあらず。是等の事はすべてみな迷ひに属するなり。知らざることを知らんとするが故に迷ふなり。教へを受けて知るは易し。故に教師に対しては深く感謝せざるべからず。何となれば労せずして目的を達することを得るは、師の力によるなれば感謝するは報恩なるべし。我、斯くも分かり切りたることを何故語り居るやについて諸子は迷はざるか。此言葉に対しては我の思ひを如何に解釈するや。諸子は沈黙して彼か是かと迷ひの心を深くするならん。然して我が思ひの何なるかをたしかめんとするが故に、諸子の心は我に来る。是を放心すると云ふなり。然して我を諸子の心に引き入れんとするは帰心に属す。是即ち放心帰心の法と云ふなり。所謂圧力と引力の二つが同時に行はれつつあるが故に、そこに一種の絆となりて我と諸子はつながる。然して相互間にその意識が深くなればなるだけ、互いに接近してやがては一体化となる。一体化となりてここに初めて融和し、やがては同化して一如の境涯にをかるるなり。是を愛と云ふ。愛とは合(あい)の意味に合ふ。故に誰かが愛は合いなりと説きたる人もあるならん。神を愛せよと云ふは神に合へよと云ふ言葉に合ふ。神は愛なりと云ふも神は諸子に合はんとする心を有せられたるが故に、あらはれたる言葉ならん。神と我と一体化して初めて愛となる。放心帰心は即ち愛を求むる方法にして他に意味あるにあらず。故にすべては愛なりと思ふも可ならん。
 我と彼と一体化して一身同体の如くならば其は即ち愛なり。一心同体に化せらるるにあらざれば愛したりと云ふ言葉は成立せざるなり。諸子は愛と云ふ意味に対して愛するとは如何なることかと聞かれなば答へに苦むならん。されど我心と彼の心が同化するが故に愛と云ふなり。同化せずば愛にあらず。故に愛とは合なりと思ふも可ならん。和合するは愛なり。和合せずば愛にあらず。我、彼を愛すと云ふは、我と彼とは一如の境涯に迄進まずば、正しき愛は得難し。又正しき愛にあらず。誰かが語りたる言葉に恋は来たれ、恋は来いなりと語りたり。面白き言葉ならん。恋するは彼と同化せんとの思ひなれば、彼を見て恋するは我に来れ、恋は来いの意味なりと云ひしとあるは、面白き例ならずや。所謂恋は引力にして、嫌ふは圧力に属す。神を恋するは神を招くなり。人間同士の恋は成立することもあり、成立せざることもあれど、神に対する恋は必ずや成功す。汝等諸子は神に恋しては如何、神に恋するは即ち信仰なり。人間同士の恋は片思ひと云ふことあれど、神への恋は片思ひはあらざるなり。必ず成功す。即ち思ひと思ひは空なるが故に、同化するなり。神の思ひは空なり。汝の思ひが空ならば忽ち同化す。是は放心にも帰心にもあらず。汝の心さへ空とならば、神は常に空なるが故に、忽ち同化す。水の中に水を入るると同様なり。諸子は水の中に油を入るる故に、同化せざるなり。水と油とを同化せしめんとせば、互いに分解せずば融和すること難し。是には努力を要す。もし汝の心が油にして神の心が水ならば、是を同化するには何かの方法を用いずばなし難からん。汝等が油の心を清水に変へるにあらざれば、神の水には化し難し。是には如何なる法を択ぶべきかを考へ見よ。
 未知日記前巻を読みたる人ならば、此理は確かに察せられる筈なり。日本の古来の風習に我が子を主君の子の身がはりとして殺害したることありしを諸子は知るならん。斯る事を現代の人に語るとも理解すること能はざるべし。もとより斯る事は宗教の過誤より生じたる風習にて、決して正しき教へにあらず。是等の事には他国の宗教に於ても、犠牲とか称して人命を奪ふ教へもあれど、是等すべては誤ちたる教へにして正しからず。即ち枝葉に渡りたる教へなれば、斯る愚なる教への法則を信ずることなかれ。されど是を根底に逆上りて精神的修養より考察すれば、意味なきことにあらず。是等の事に対して語ることは易けれど余りに大人気なし。汝等衆人斯る事を知り度ば円海に問ふべし。其は別として汝等衆人の心は神の心に比ぶれば、余りに汚れ多くして油の如くなり居るが故に、その油を浄化して神の心の如くならしむれば、忽ち同化して神と一体となることは云ふ迄もなし。故に汚れたる心を浄化せざるべからず。迷ひとは汚れたる心を云ふなり。迷ひ晴るると云ふは、浄化せられて神の心に同化するにあらざれば、迷ひは晴るるものにあらず。故に迷ひは汚れにして、信は浄化を意味するなり。疑ひは信の門なりと思ひて、疑ひの心を徐々にぬぐひ去りて浄化ならしむれば、信は得られて初めて神の存在を知り、且又神と同化するを得らるるなり。

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