未知日記霊話集千四百二十六回 大霊界 疑は信仰の門 その4 内外一体の拝みとは自他一如の拝みを云ふ。外を求むるにあらず。又内を求むるにあらず。内外一体となりて拝みをなすなり。  所謂一心と云ふは内外を一体化せよと云ふ意味なれば、その心して一心を乱さず、常に拝み居らば可ならん  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                          NO111
疑ひは信仰の門     その4
教主寛大 講述



 疑ひの心は信を得んが為の疑ひにあらざれば、正しき信を得ること難し。嘲りの心もて疑ふは信の門にあらず。汝等衆人の疑ひの多くは信を得んが為の疑ひにあらずして、嘲りの心もて疑ふもの多かるべし。嘲りの心は自我心を強くするにすぎず。信を得んが為の疑ひは、疑ひに似て疑ひにあらず。故にその心は信に化せられて次第に影をひそめ、やがて疑ひの念は晴れて純粋の信に化せられるが故に、同じ疑ひの心にも自我心の疑ひにては信を得ること難し。自我心の疑ひは信の門を見て、そのまま立ち去る人を云ふなり。信仰の門を見て此門に一歩を入れて、然して行く処迄門内を通過するにあらざれば、信の影は見ること難きは云ふ迄もなからん。信の門を見て門内に入らんとせず立ち去らば、生涯信の影は得られざる理も推して知らるるならん。欺かるるとも信ぜよと云ふ程度迄、信仰の力を伸さざるべからず。欺かるるは我の愚にあらず。又我の罪にもあらず。欺きしものは悪者にして罪人なり。我には却って深き恵みあらん。かく考へて信仰の度をたかめよ。迷はさるるとも迷はす勿れ。信の力貯へたる人にして初めて意志の強固に働くは是即ち信の力なり。何日こだま会にて慈音が話したる、医師より受けし処方箋を、護符と間違えて服用し、其によって病苦を治癒したりと云ふ老婆の信仰は、是即ち信仰の力の優れたるが故なり。暗示と云ふは事の如何を問はず信ずるが故に、はたらきの力は是に化せられて意の如くなるなり。斯る精神的より、肉体に及ぶ備はりは、自然の恩恵によって与へられ居るなり。神を信じて祈り居らば、必ず病苦が治癒すと云ふ確信ありて、拝みをなし居らば、或程度の病気は治癒したる例はすくなからずあるべし。是等はすべて暗示の作用によるが故なり。
 若し人にして霊魂の備はりなかりせば、暗示の作用は斯くも優れたる結果を得ること難し。身心の暗示は唯肉体的のはたらきにすぎざるが故、あらはるるも偉大なる効果あらざるなり。信仰を得て、その信仰によって、生ずる働きならざるべからず。他の動物には斯る備はりなし。唯人間にのみ其具備を有す。是等の事柄は未知日記にて説き尽しあれば今更語る迄もなし。身心にのみ心惹かれ居りては、信仰の力は鈍し。故に身心を離れて魂霊に通ずる信仰に迄尺度を延ばさば、希望を充たすことは得難し。信仰の力を養ふには内外一体化したる拝みにあらざれば通ずるものにあらず。内外一体化となりて拝みせよと云ふとも、諸子には理解すること難からん。拝みとは唯心のみなりと思ひ居らば其は大なる過誤なり。心の拝みは一時的にしてただよへる雲の如く忽ち影を没す。宗教者の語る糠念仏とは是なり。内外一体の拝みとは自他一如の拝みを云ふ。外を求むるにあらず。又内を求むるにあらず。内外一体となりて拝みをなすなり。
 所謂一心と云ふは内外を一体化せよと云ふ意味なれば、その心して一心を乱さず、常に拝み居らば可ならん。汝等衆人は他より恵みを受けて唯有難しと礼を云ふは、恵みたる者に対しての言葉にすぎず。もし是が心の底より有難しと云ふ感謝の礼ならば、口には有難しと出づるものにあらず。唯無言詞にて彼に通ぜしむる、拝みの礼にあらざれば拝みとはならざるなり。内外一体化となりて其が言葉となりて、有難しと口より出づる言葉と唯口先にて有難しと云ふ言葉の相違は、誰にも感じられるならん。されどその有難しの念が今一層深くなりて、勿体なしの念迄到達せば、其は最早口には出づるものにはあらず。されど口に出でずとも、その思ひは彼をして満足せしむる働きとなることは、諸子も体験したることあらん。

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