未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百七十四回 絶対界 第九章 神は常に諸子を見守りあるが故に、分時も諸子より眼を放すことあらざることに思ひをいたし居らば、軈ては神を見る眼は開かれて、神なる親を知るに至らん。其はとにかく諸子の心否諸子の魂が、無始終霊子に迄立ちかへることを得ば、すべての謎は解けて迷夢より醒めることの時節到らん テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 


絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係



  或人曰く、知慧のかたまりは即ち魂なりと語り居るを我らは聞きたり。 彼の説によれば大なる魂は、大なる智者なり。 知慧なきものは魂も小さし。 故に魂をみがくと云ふは知慧を大にして光を強くするにあらざれば、 魂の実は結ばれず、又光もにぶし。 故に知慧を増すことによって、魂の実をみががずば光は遠くを照らす力なし。 始めに魂と云ふ小さき種子を蒔きて、 知慧の肥料によって是を育て、然して完全なる稔りを得さすことに依て、 はじめて魂の威徳は現はるるなり。 他の動物と人間との異なる処は、即ちここにあるなりと教へ居るを我等は聞きたり。この説は諸子の世界の人にあらず。即ち九流界下部の教へなり。人より教へを受けて学びたる事柄は誰も知る。 是等は動物性智覚にして知慧にあらず。唯養分を吸収したるに他ならざるなり。 クウワオと云ふ動物が九流界にありて、その人類より授けられたる事柄を知るによって、すべての事柄に対してはたらきをなすことを得るも、彼等は知慧の具備あらざるが故に、自覚する力あらざるなり。故に彼等には魂と云ふものの存在せずと語り居れり。是等はすべて九流界人類の説にして珍らしければ、諸子の参考として語りおくに止むべし。是等の説に対して我等は彼是と批判することは避くべし。後に教主の語らるる教へを受けて、諸子の自覚を促す材料とせば可ならん。話は横道に入りたり。もとに復すべし。
 一流界二流界の如く語らずして通ずる程度迄、進まずば無言詞界とは云はれざるなり。されば無言詞界のすべてを知らんとなれば、その居に達せずば得られざるやと云ふに然らず。理を知りて法を案出すれば、無言詞界は諸子の世界にありても、覚ることを得るなり。覚りて法を行へば、凡てに通ず。語らずとも思ひを起せば、言葉なくともその思ひは全土に通ず。是なれば是として叶へられ、非なれば非として退けらるるに終る。思ひを起して言葉に組織せらるる迄に、その思ひは一二流界のものには直ちに通ず。されど思はざる以前の事柄は、神より他に知るものはあらざるなり。是等の理は有形無形を問はずすべては然あるなり。不滅母霊子は全宇宙にみなぎりありて通ぜざるところなし。故に諸子の世界にありても是等の具備はあるなり。是を大自然の具備と云ふ。
 諸子は全宇宙の何処かに特別に備へられたる、神の世界がありと考ふるならん。我等も修行時代はかかる考へを有し居たるなり。全宇宙の中に特別なる場所を備へて、その所に神の居ますと考へなば、其は大なる誤ちにて、 神の居は何処如何なる処にも全土にまたがりて、その居を有しあるが故に、別段ここぞと云ふ特殊の地点を設けあるにあらずと知りおくの必要あるなり。その心にて日々の修行を怠らざるやう注意なしおくものなり。然らば神とは如何なるものかと云ふ疑問を起すならん。もし神は己のみ安らかなるところに住居して、 諸子を危きところにおきて安んじ居るものならば、神としての価値はあらざるなり。危き処に諸子をおきて、神のみ安き所に在りて、諸子を顧みざる如きものならば、神の価値は尊ぶに足らず。却て卑めらるる他なかるべし。何となれば諸子を造りしはすべて、神の力なり。故に諸子は神に造られたる、神の子なり。 苦むものを作りて、苦ませて是を喜ぶ如き神ならば、其は神にあらず。親は我児を愛す。神は諸子を愛するは当然なるべし。
 故に神は全宇宙の一角に己が住居を造るの必要もなく、住まはんとすれば何処に在りても住居することの自由なるによって、別段ここぞと云ふ定めのあらざるは、 是又察するにあまりあらん。 神は常に諸子を見守りあるが故に、分時も諸子より眼を放すことあらざることに思ひをいたし居らば、軈ては神を見る眼は開かれて、神なる親を知るに至らん。其はとにかく諸子の心否諸子の魂が、無始終霊子に迄立ちかへることを得ば、すべての謎は解けて迷夢より醒めることの時節到らん。不滅母霊子に迄立ちかへらせんが為に、種々様々の教へをなし居れど、要は不滅母霊子に迄立ちかへらするための手段に他ならずと知るべし。

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