未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百七十二回 絶対界 第九章 こだま会に集り来る人達の肉眼(め)は、慈音に注がれ居れど、彼等の心眼は、慈音に来る円海を、見んとなし居るにはあらざるか。耳に於ても然り。声は慈音の口より出で、彼等の肉耳に通じ居れど、その言葉は円海の声として、心耳に、聞き居るにはあらざるか。肉耳と心耳の相違はここにあるなり。 肉眼心眼は又同様なり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 
第九章
           テツシン貴尊講義


 病苦を治癒せしむるに対しても薬石のそなはりが存し居るに不拘、知慧なきが故に諸子は是を知らず、平癒すべき、病気をも死に至らしめ居るは、実に遺憾なることなり。如何なる病苦に対しても、苦みをまぬがれしむる法もそなはりあるなり。されど諸子は是を知らざるのみ。 みがきて知慧を求むれば、その材料は悉くそなはりあることに留意せよ。是等はすべて不滅母のそなはりより、次第に拡張して研究すればすべては明らかとならん。


 形あるものには形を以てし、形なきものには形なきものを以てすれば、法は得らる。不滅母霊子の研究に迄、科学の力をのばしなば、すべての道は開らかれ、すべての法を案出すること難きにあらざるが故なり。 言葉なき言葉を聞くものは誰ぞ。例へばこだま会に集り来る人達の肉眼(め)は、慈音に注がれ居れど、彼等の心眼は、慈音に来る円海を、見んとなし居るにはあらざるか。耳に於ても然り。声は慈音の口より出で、彼等の肉耳に通じ居れど、その言葉は円海の声として、心耳に、聞き居るにはあらざるか。肉耳と心耳の相違はここにあるなり。 肉眼心眼は又同様なり。 心眼を開けよと語り居るに対して、諸子は何か他に肉眼以外のものを発見せんとして、却て心眼を閉ぢ居るなり。法とはむづかしきものにあらず。今も語りし慈音の譬喩の如く、こだま会の人々は心眼肉眼を同時にはたらかせ居るによって、その区別は脳裡に映りて、円海の講義を聞きとり居ることに心づかば、心眼心耳とは別段変りたるものにあらざることを悟るならん。


 諸子はよく如何にすれば、心眼は開らかるるやとの質問をなして、新らしき法を他によって求めんとなし居る如きは、心眼を開くにあらずして、却て心眼を閉ぢ居る結果となるなり。無言詞を聞く耳の理も、従つてこの理より考察すれば自づと悟ることを得るならん。 徒らに心を労して他によって法を求めんとすることの考へを捨てよ。 諸子には神より授けられたるすべての材料が整備ひ居るなり。故にその組みかたを正しく用ゆれば、はたらきも従つて是に伴ふ。然して法も自づと案出せらるるは是すべて、神の恵みに帰す。無言詞を聴かんとして、神を拝むは法の極意なり。むづかしきものにあらず。諸子は薬を調合するに何々と何々を化合して服用せば、何々の病苦は治癒すとの法を知るならん。 其と同様にて拝みとは物と物との化合せしむる法にて、所謂病を知って薬を説くに等し。諸子は何か他に求むる力の存在するとの思ひにて拝みをなす故に、その拝みは通ぜざるなり。 何となれば拝みする時物と物との化合することなく、唯思案なし居りては機能は得難し。其と同様にて諸子の拝みは思案に等し。故に通ぜざるなり。

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