未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百七十一回 絶対界 第九章 二流界一流界ともならば、全宇宙を我物として、自由自在にかけめぐるも、敢て意とするには足らざるならん。 是等は諸子の科学の法則より順次考究すれば、その理は知ること難きにはあらざるべし。知すぐれて大自然を悟り、その大自然に有する法に合ふ道を択ばば、すべてはなしてならずと云ふことなし。ならざるは知慧なきが故なり。 全宇宙にはすべてに関して材料は、完全にそなはりあるなり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています



絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 
第九章
           テツシン貴尊講義


 諸子の肉体は形の上に於てさのみ異なるところなけれど、仔細に検討すれば体質に於て異なるところあるならん。体質の異なるは機械の構造が異なり居るによって、其はたらきの点に於ても異なることは云ふ迄もなし。 是を個性と云ふなり。 一般諸子の魂は、機械の運転主なるによって、魂と云ふは皆同一なれど、 任務の如何はすべて機械による。故に機械の構造が任務を支配すと思はば可ならん。労働するものの肉体は、力量なくしてはつとまるものにあらず。知慧の労働者は知慧の力量すぐれずば、肉体のみにては、要を弁ずることあたはざるならん。 肉体の力量そなはり、知慧の力量そなはるものならば、両道に通じてのはたらき全きを得るは当然なり。されど、諸子の世界の人類には、斯る両道備りたるもの少なからん。智能すぐるれば肉体の力うすく、肉体の力すぐるれば、智能はうすし。 是等は一般の法則となり居るならん。是を我等に云はしむれば両道全きもの一人としてあらざるなり。何となれば諸子の世界の自然は斯るところに欠陥のあるによつてなり。諸子の世界の人類の中に於て片手に千貫の重きを持ち、片手に百万の人を手なづくる人材ありや。我未だ斯る人のあるを聞かず。知慧によつて一界を治め、力によって一界を支ふの人にあらざれば、両道全しとは言ひ難し。既に、二流界の人類ともならば、 小児と雖も斯る事は容易のわざにて敢て不思議とも感ぜざるなり。 我、斯る事を語るとも諸子には唯苦笑するの他なからん。 然して我等の説を嘲笑する他なかるべし。 我等は大言壮語するにあらず。 至つて微々たる事を語り居るにすぎざるなり。 全宇宙は広大なり。諸子の心は余りに小さし。今少し活眼を開らきて全宇宙の方向にむけよ。井中の蛙となり居りては、人類の向上望はまれざるべし。


 一個の投石は軽くとも水底に没す。万人支へ難き船は、水上をはしるにてはあらざるか。宇宙の隕石は落下し来りて地上に墜つ。然るに天空に散在する数多の星は、空間に浮び居るにてはあらざるか。是みな法なり。汝等の考へはすべて水面に投石するに等し。古代の人に対して汝等の世界より、月の世界に旅行すると語るとも解する人あらざりしならん。されど現在の人類は最早是等に対して不審するものもなかるべし。 地球より月界迄わづかに九万六千里と計算なし居るにはあらざるや。法を以てすれば百万里遠からず。されど汝等の肉体にて、機械なくしては一里すら飛行すること難からん。すべては法なり。すべては知慧なり。知慧によって法を知るにあらざれば、人類の向上発達は望まれざるべし。先にも語りし如く九流界上流の人類は、隣国の小児と小児同志が朝夕交はりて遊び居ると聞かされなば諸子の世界の人類は疑ふ者多かるべし。されど事実に於て彼等は法を知り、其を応用して交はりをなすことを敢て奇とせずたはむれ居るなり。まして二流界一流界ともならば、全宇宙を我物として、自由自在にかけめぐるも、敢て意とするには足らざるならん。 是等は諸子の科学の法則より順次考究すれば、その理は知ること難きにはあらざるべし。知すぐれて大自然を悟り、その大自然に有する法に合ふ道を択ばば、すべてはなしてならずと云ふことなし。ならざるは知慧なきが故なり。 全宇宙にはすべてに関して材料は、完全にそなはりあるなり。 法によってその用法をあやまたずば、何事も成就する事疑ひなしと、我等は断言して憚らざるなり。

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