未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百六十五回 絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 汝の肉体より放射なし居る光明は、汝の手汝の耳汝の眼すべてなり。其が神との光明につながり居らば、危きことのあるべき道理なし。 魂とは即ち光明の根なり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています


絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 
第九章
不滅母霊子と無言詞の関係
           テツシン貴尊講義

 先にも語りし如く尺にも足らぬ電気鰻が牛馬を倒す。 かかる備はりがある以上、人間として真の姿となるならば、如何に大なるはたらきをなすものかも推して知ることを得ん。一疋の蚤が跳ぶ力を、その蚤の大きさより、人間に比例して考ふる時は、一とびに高き処に跳び上るとも何等不審することなかるべし。然るに人は蚤に比例したる働きをもなし得ざるにはあらざるか。 肉体の力に信頼すればかくの如く弱はきものにて、かかる不自由なるものの中心にあらざる事の理は推して知らるるならん。 所謂中心とは、即ち魂を措いて他にはあらざるなり。即ち魂と云ふものに、心と云ふ肌着を纏はせ、その上に肉体と云ふ衣を纒はしめたるに他ならず。 聊か話は横道に入りたる感あれど是は比喩にして、不滅母の方向に向はしめんが為に語り居るに他ならず。 不滅母の方向に向つて、魂の測定をなすにあらざれば、人智は得がたく又魂の稔りは完全とはならざるなり。諸子は日々空気に向って感謝の言葉を捧げ居るや。偶像にむかつて手を合はす。偶像何ぞ力あらんや。 礼拝堂に歩みを進めて祈りをなす。 礼拝堂に何ぞ神あらんや。然るに諸子は是をなし居るにてはあらざるか。


 先にも語りたる如く諸子は偶像を拝し、或は礼拝堂に入るも帰するところは肉体信仰にして、霊的信仰のうすきが故なるべし。大なる寺院を建設し、その所に参詣(もう)でて多くの人の霊気によって、気光素を作り居ることは前書にもくはしく述べたり。もとより其等と雖も空しきことにてはあらざるなり。されどかかることは一方的の信仰にして、絶対信仰にはあらざるなり。目標を作りて是を拝す。 其は身心一体の拝みならば敢て咎むるに足らず。 斯る事をなすにあたって相対関係にて一方的の拝みとならば、その拝みは従つて一方的となる。 其理はしばしば語り居るによってここには省略す。 然しながら諸子は我家にありて日々任務の傍、朝夕のみ偶像を拝するは、肉体的信仰を未だすてざるが故なり。身心一体の信仰者となり居らば、任務をなし居りながら、何処如何なる処にありても、拝みはなさるる筈なり。わけても無駄なる時間を空費して、遠方の神にわざわざ参詣るなどは実に滑稽なる徒事にて、かかる信仰は正しき信仰者にはあらざるなり。 神は分時も汝を離れ給はず、汝に在りて見守り給ふ事の真を知るならば、 何処如何なるところにありても、神を忘るる事のありては、神と我等の一体化は果されざるなり。故に諸子はあやまちて怪我あやまちをなすなり。歩みを運ぶにあたっても神と共に歩み居らば、怪我あやまちはあらざるべし。然るに神を離れて他方に眼をむくるが故に、ややもすれば転倒して傷く如きは、神を知らざるが故なり。 給も幼児が母の手を離れていたづらをなすに等し。汝の肉体より放射なし居る光明は、汝の手汝の耳汝の眼すべてなり。其が神との光明につながり居らば、危きことのあるべき道理なし。 魂とは即ち光明の根なり。即ち魂は光明の源なるが故に、謂わば汝の肉体に相当す。然してその光明の根より、八方十方に枝葉が伸び居ると知らば、魂は何なるかも推して知ることを得るならん(五大鏡を参照せよ)。

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