未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百六十二回 絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 ひびきありて音なきものあらざるなり。是即ち宇宙の声なり。是を名づけての無音、無の声と、語り居るにて帰するところ言葉の根原は、即ち此無声音より現出すと知らば可ならん。静かに耳をそばだてて、空吹く風の音を聞く時、その風の音が何人かが語らひつつ歩み居る如く感じらるる事もあらん。 無意にして月を見る時、月はその人に対して何か語らひをなし居る如く感ずることもあらん。花草等々すべて無意の語らひをなし居る如き感じはあるならん テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 
第九章
不滅母霊子と無言詞の関係
  テツシン貴尊講義


 元来物事を組織し建設せんとするは生かさんがための方法にして、亡ぼさんがためのものにあらず。諸子の世界に於て戦ひを交へ多くの人命を奪ふも、帰するところは有害なるものを排除して、有益なるものに化せしめんとするの戦いなるべし。然りとせば生かさんが為の戦ひにして、亡ぼさんが為に争ふにてはあらざるべし。此理よりすべてを考察する時、全宇宙は即ち生より生へと、生を追てすべてを作り、又生かさんが為に障碍となるべきものを、亡ぼし居ることの理はうなづかるるならん。故に生は動によって持続なして尽きるところあらざるべし。静は動を生む源にして、その静と云ふも帰するところは生の為の静なるべし。故に静中に動あり。動中静ありと語り居るなり。 されば静と云ふも動と云ふも帰するところは生なるべし。 動静は一種の波長なり。故に是を音と云ふなり。音とは応答の意味にして、即ち応ずる答への意味なれば、問に対する響きに他ならず。 所謂響きあるものには音なかるべからず。動も響き静にもひびき、又生にもひびきある以上すべては音なり。 ひびきありて音なきものあらざるなり。是即ち宇宙の声なり。是を名づけての無音、無の声と、語り居るにて帰するところ言葉の根原は、即ち此無声音より現出すと知らば可ならん。静かに耳をそばだてて、空吹く風の音を聞く時、その風の音が何人かが語らひつつ歩み居る如く感じらるる事もあらん。 無意にして月を見る時、月はその人に対して何か語らひをなし居る如く感ずることもあらん。花草等々すべて無意の語らひをなし居る如き感じはあるならん。さればこそ諸子は美文名文と、是等のものより発見なすことを得るなり。小児は人形を抱きて彼と語らふ。是みな響より生ずる無言詞のはたらきが、霊によって化せられたるに他ならず。その無言詞こそ静に属し、その静より次第に動じ来りて組織され、然して言葉を建設するに至りてはじめて其が実在となるなり。既に言葉に化せらるれば、それは形の整ひたるものにて有形となるなり。是を空の有形と云ふ。されば空の中にも無形有形の存在することの理は、ほぼ認識することを得たるならん。此理をよくよく理解なすにあらざれば、不滅母の作用を明らかに悟ることを得ざるなり。無中の有、有中の無と語り居る言葉は、すべて空の中に含有せるすべての働きによつて生ずる力の、現はれに他ならず。 諸子は空と云へば空虚を考ふる
が故に、空の力の偉大なる方面には、余り留意せざる傾きあらん。
さればこそ諸子は霊魂などのあるべき要なしとして、是を等閑に附し居る傾向あるは、空の方向にまなこをむけ居らざるが故なり。空の事柄に対して空も実なりとして取り扱ふならば、すべての理は明白となるなり。故に空は空虚にあらず。空も実在なりとしてその方向にむかって研究なさば、霊魂の何なるかは理解すること難きにあらざるなり。

×

非ログインユーザーとして返信する