未知日記霊話集 第千二百十五回 絶対界 第六章 神霊界 霊の動静について 是等の小動物にすら霊子のはたらきが電力となりて、思ひもよらぬ不可思議なる力を有し居ることより見るも、学理を奥深く追究せば、病気を治癒するに薬石のみに囚はれず、一方精神療法の度を高むる必要ありと思ふが如何! テツシン貴尊講義

ヒロさんが転記した絶対界です
絶対界              テツシン貴尊講義


 すべて全宇宙の事柄は引力圧力の二者の摩擦によって持続なし居ることは、学者も智者も否定することあたはざるべし。 是等が程度に応じて程よく按排せられ居る時は世は安らかなり。 若し其がその両者に於て相違ある時は、何かの事故が引き起されて或は破壊に或は組織へと運ばれあるなり。是を人類に取りて考へ見る時、圧力と引力が常に平行して進みつつある間は、肉体に取りて何らの障碍もあらざるなり。若し其が程よく調和せざる時は病苦を併発す。是等すべてが帰するところ活動霊子補助霊子のはたらきなるによつてなり。 肉体に於て痛みを覚え、或は種々様々の苦痛を感ずるも霊子の働きに基因す。 活動霊子を盛にすれば陽電となり、補助霊子を盛にすれば陰電となる。 活動霊子は圧力に相当し、補助霊子は引力に相当す。 諸子が怒りを感じ喜悦を感ずるも、活動霊子のはたらきに他ならず。諸子はよく体験することならん。其は何も理由なきに腹立しさ、或は喜ばしさを感ずることもあるならん。 是等は活動霊子のはたらきによる。然して又哀愁を感じ或は情け心を起すなどの感じ来ることもあるならん。 是等もみな補助霊子のはたらきに他ならず。是みな引力圧力の関係あるによつてなり。 人は感情の動物と語り居れど、その感情とは如何なるものかに関して研究するならば、即ち陰陽霊子のはたらきあるによって、種々様々の現象が現はるると知らば可ならん。 催眠術によって小児が大なる重量のものを平気にて持ち上ぐるなど、是等もみな霊子のはたらきが一方的となるによってなさるるものにして、謂はば小児の機械が大なる電力を受けてはたらくと思はば可ならん。 精神療法によって薬石の及ばざる病を治癒するも、霊子の電気がはたらく力あるによってなり。是等は学理によって見るも敢て不審することあらざるべし。是を一概に迷信として排斥するは、霊子のはたらく電気の力を没却なすによってなるべし。人間の肉体にも電気のそなはりはあるなり。諸子の世界は電気鰻とか電気魚とか、又は電気を起す虫なども多くあらん。 是等の小動物が大なる獣類を、倒す如き力すら有し居ることを、諸子は体験なしたるならん。 是等の小動物にすら霊子のはたらきが電力となりて、思ひもよらぬ不可思議なる力を有し居ることより見るも、学理を奥深く追究せば、病気を治癒するに薬石のみに囚はれず、一方精神療法の度を高むる必要ありと思ふが如何!


 活動霊子補助霊子は不滅母の子なり。此不滅母の生みたる二種の霊子が互にはたらきて、全宇宙の諸々のものが造られあるが故に、すべてのもの形を失はるれば、その悉くがもとの不滅母に帰る。故に不滅母に生れて、不滅母にかへる。 是を要約すれば絶対より生れて、絶対にかへると云ふは因果の法則なるべし。故に力と云ふもその程度の強弱あるによって、小にも通じ大にも通ず。 又強にも通じ弱にも通ず。ものの集合して形をなすも引力圧力のあるによっては融和し、或は分解し、増減変化を来し居ることも解することを得たるならん。 一の言葉によって怨敵を降伏せしめ、聖者を和睦なさしむることも、不滅母より生れたる霊子の力あるによつてなり。 諸子の世界に於て伝統的暗示の消えやらざるも、皆霊子の作用による。 諸子はあまりに実間より実間へと形を追ふて、すべてを実間の方法に心を用いて、空間をおろそかにする傾向あるによつて、ここに行きづまりを生じて為に悩みを感ずるなり。さりとて又空間にのみ思ひをはすれば、是又はてしなきが為思慮に尽きて、 是又行きづまりとなるにてはあらざるか。 何処に智を向くるも及ばざるは是絶対なるが故なり。 広きにあらず。 又せまきにあらず。即ち実間の方向にむくるも空間の方向にむくるも、その両者が絶対より生れたるものなるによって、何処迄行くもはてしなく尽きることあらざるなり。是絶対性原理なるが故なり。人にものを教ゆるは圧力の法に合ひ、是を受け入れて収むるは引力の法に合ふ。修養とは引力の法を用い居るにて、教ゆるとは圧力の法を用ひ居るなり。 教へにぶきと云ふは圧力の程度低き故なり。


学びて得られざるは引力のにぶきこと云ふ迄もなし。 小児に対して老人の教へをなすとも徹するものにあらず。 小児には小児の程度に従ひて教へをなし、老人には老人の程度に従ひて教へをなさば通ずることは云ふ迄もなし。 是圧力の力の程度あるによつてなり。 融和せしめんとならばその程度に応じて用いざるべからず。 小学生には小学の教へあり。 大学生には大学の教へあるならん。 小学生に大学の教へをなすとも及ばざるは何故ぞの理を考へ見よ。 引力圧力の程度を計りて程よく按排するにあらざれば世は保たるるものにあらず。我斯る分り切りたることを何故れいれいしく掲げしかと云ふに他ならず、諸子は我の語りたる不滅母或は活動霊子補助霊子の理論を聞きて、其を唯理窟と思ひ、又机上の空論の如く考へ居ることを知るによってなり。よし是の説を信ずる人ありとするも其を以て如何にすれば可ならんかとの念を起す人もあらん。 又此霊子の作用が巳が身に備はりあるならば、其によって修養修行の方法を如何にせば可ならんかとの思ひをおこす人もあるならん。 よつて是等の迷ひを晴らさんがために斯る分り切りたる事を掲げたるなり。諸子は説を聞きて法を求むる傾向あるによって、唯説のみにては満足することあたはざるなり。 説は法なり。法なるが故に説は生れたるなりとせば、 説を聞かば自づと法は得らるる道理あることに心せられんことを望む。

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