未知日記霊話集千二百五回 光明論 下巻 巻の十 真の陰徳とは円海などの行為を云ふなり。即ちその救ひの徳ありしを人は受けながら知らずして、知るものは唯神と其に奉仕る下僕のみなり。是に反し汝等の陰徳は何時しか人の知る処となる 教主寛大講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    

 汝等が世を救はんと思ふならば真の心を以てせざるべからず。汝等の救済と叫ぶは有形救済にして無形救済に欠けたり。有形救済のみにては一方に偏するを以て相互に誤解を生ず。故に汝等は陰徳を施さんとして却て陽徳に変化するなり。真の陰徳とは円海などの行為を云ふなり。即ちその救ひの徳ありしを人は受けながら知らずして、知るものは唯神と其に奉仕る下僕のみなり。是に反し汝等の陰徳は何時しか人の知る処となる。故に純然たる陰徳とは云はれざるなり。陰徳をつむことに於てすら尚かくの如し。まして陽徳なるに於てをや。されば汝等の世界は有形に囚はれ居る結果、救済に於ても有形救済となるなり。我、かく語るとも汝等は有形救済と云ふ意味をも知らざるならん。
 有形救済とは何かの形にあらはるる救済を云ふ。その行為は蔭にもあれ日向にもあれ、すべて何かの形に現はるるを云ふ。例へば汝等神の信仰するに於ても我かくも修行を重ねたれば、神より何かのしるしを蒙るべきに、何等の験もあらざるは未だ信仰の拙きかと考ふるも即ち有形に属す。何となれば何かの験、即ち験こそは有形なりと知らば可なり。人は死して名を残すと云へる言葉によってすべてを世に捧げんと願ふ救済、是等も形を有するによって有形救済の部類に属す。私慾のための救済などすべて有形なりと知るべし。されば無形救済とは如何なるを云ふかとの疑問なるべし。即ち円海その他泰岳などの行ひを指すなれど汝等には理解は困難ならん。故に一例をあげて参考とせん。
 先づ汝等に感銘を与へたる泰岳を引用して語るべし。深山の花は人の眼を慰めんとて開らくにあらねど、春来りなば開らく。見るものは誰なるか。花に問ふべし。泰岳は世を救はんとの慾もなく唯神の命に従ひ居るにすぎず。即ち深山の花に等し。されば泰岳は神の仰せを蒙りて命ぜらるるままに動く機械にすぎざるなり。彼の肉体は機械なれば動力を与ふれば廻転し。然らずば休止して静なり。故に彼は形ありてなきに等し。自己に囚はれず、すべてを神に任せたり。是等の事柄より汝等は観察し見よ。無形救済とは是なり。

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