未知日記霊話集千百四十一回 光明論 下巻 巻の九 常住坐臥神をはなさぬ人にして初めて安全なるは云ふ迄も無し。信仰者にして道を踏み外すは知らず知らずの裡に神に遠ざかりあるによってなり。神は汝等を離れざるもややもすれば汝等は道にたはむるる幼児の如く親の眼をのがれて迷ふに等しければなりと思ひて常に神を忘るべからず テツシン貴尊講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第二章 コゥ の門


                  テツシン貴尊 講述
                  

 此例話は滑稽の中に覚る処は深からん。汝等よく考へ見るべし。汝等が世界の多くの人は、此息子的なる考へにて世を送るにより成功するは稀なり。息子の如く一方に偏く考えへの人の企業の企てには半ならずして希望を変へ、更に又次の事業へと転々して結局は有害無益に終り、然して我は不遇の者なりとて非をかこつ愚物多きことなり。己の不遇をかこつ者は己の信仰無きを告白しつつあるなり。信仰うすきが故に智慧も従ってにぶし。息子を誡めし父にして信仰の輝きは強く働く。汝等この父の如き信仰ある考へにて世を渡るならば過失は尠なくして成功は速かなるべし。此理より推考せば仏教の他力自力も皆其々に信仰をモットーとしあるによって成仏の疑ひなき事も知らるるならん。キリストの教えへも亦然り。されど信ぜずば何れを学すとも解脱する事難きは当然なり。されば信仰は深きを要す。所謂邪教は邪法を送入し、正教は正法を送入す。汝等は好む処に従ふべし。汝等が日常生活の中に信仰を取り入れて常住坐臥行ひに移し居る人は、我等が見る処極めて少なきを遺憾に思ふなり。わけて宗教を信ずる人にして宗教は宗教として、又生活は生活として区分し居るを見るも亦遺憾なり。宗教と生活は一にして二にはあらざるならん。然るに是を切りはなす故に信仰は得られざるなり。たとえば家業にいそしむも宗教なり。小にして炊事も清掃も信仰なきがなきが故に飯をこがし塵を残すなり。信仰なき考への行ひは大地に支へなき旗竿を立てたるに等しきことを此門は教へたるなり。然らば又冷気に偏れば如何と云ふに是も亦熱情と反対の結果となりて現はる。即ち情熱は失はれて自己心にのみ囚はれて、他人を顧ることなき浮薄者となりて世間より爪弾きさるるなり。されど信仰を伴ふ考へにては情熱に対しては冷静を伴ひ、冷静に対しては情熱を伴ふ。故に一方に偏ることなし。さりながら如何に信仰の優れし人と雖も道を誤たば外して顛落は免れざるなり。常住坐臥神をはなさぬ人にして初めて安全なるは云ふ迄も無し。信仰者にして道を踏み外すは知らず知らずの裡に神に遠ざかりあるによってなり。神は汝等を離れざるもややもすれば汝等は道にたはむるる幼児の如く親の眼をのがれて迷ふに等しければなりと思ひて常に神を忘るべからず。コゥの門を見れば複雑なれど理論は極て簡単なり。されど汝等には是が理解は完全に得られざるは我の疑ふ処なり。もとより我の説明の拙劣にして汝等に満足を与へしむるを得ざりしは我もよく知れり。其至らざるは教主に依て充たさるる事も亦我は知れり。

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