未知日記霊話集千百四十回 光明論 下巻 巻の九 全く宗教心なき人はすべてに偏し易き傾向あるも事実なり。故に今一歩と云ふ地点にて振り落されて目的を達するに至らずして失敗に終るは通例なり テツシン貴尊講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第二章 コゥ の門


                  テツシン貴尊 講述
                   

 所謂物事は一方に傾けば倒るるは必然なり。故にあまりに熱情的にはしる時、冷静を欠く。恰も水を沸騰せしむれば喝を癒す能はずして却て火傷せしむる恐れあれば水としての使用は全からず。兎角人は一方に傾き易き性質を有するによって失敗は免がれざるなり。一時の感情に走りて他人を害する等の過失を誘発するは水の沸騰に依て火傷せしむるに異ならず。婦女子の神経過敏症などは皆是一方に偏する結果なり。されば人を救はんが為に努力して却て、其人より憎まるる結果となりて却てなやみは我身に及ぶ如き事となりて、労して効なき行ひを屡々繰り返へすも尚自覚する能はず一生を労苦に終る。斯る人は己の行ひを正しと思ひて却て神に対して逆恨みする人なり。如何に善事を行ふとも法に合はざれば善も悪となりて罰せらるるなり。又是と反対に悪行と思ひし事が却て善行の結果となりて賞せらるることもあり。一方的の行ひ一方的の観念には斯くの如くの道理ありて結果に於ては楽みと苦みの二様に別るるも亦是非もなし。是天より定められし法則なれば曲ぐる事を得ざるなり。されば仏教の説く他力自力が一方に偏りあるは如何との疑問ならん。此論説については暫時保留して、先づ以前の説の解決を先とすべし。
 所謂此門に考へを映したるものは何等の目的も無く唯其将来を占ひしに過ぎず。故に一方のみとなりて現はれたり。さりながら斯る一方的の人は汝等の世界には極めて多し。是は即ち信仰を失ひし人と又信仰を初めよりも持たざる人と、尚信仰を持ちながら常に行ひと信仰とを切りはなして用い居る人に多き故なり。神を知らざるは当然なれど、全く宗教心なき人はすべてに偏し易き傾向あるも事実なり。故に今一歩と云ふ地点にて振り落されて目的を達するに至らずして失敗に終るは通例なり。是について面白き例話あり。
 汝等も知るならん。是は或農夫の父子、米の豊作を見て父に対ひて今年は団子を食せらるると語りしに父は首を振りて否と答へたり。やがて米にこなしたれば息子は父に同じ事を語りしに父は又否と答へたり。やがて団子を作りたれば息子は同じ質問をなせしに父は又否と云ふ。然して息子は爐辺(ろばた)に於て食せんとしにあやまちて爐(ひばち)の裡に落して食す能はざりければ、父は息子を誡めて曰く、事成就し終る迄は成就したるにあらずして成就しつつあるなれば完全になし遂ぐる迄はならずとして、油断は禁物なりと教へしとぞ。

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