覚者慈音199  未知日記講義第一二巻  大霊界  大霊界とは神の世界か  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO151
 大霊界とは神の世界か            その8                                                   教主寛大 講述


  兎に角不善を厭ふ人は既に神がその人に宿り居るが故なり。否宿り居ることを覚りたるが故なり。不善を好まざる人は神の宿り居るが故に不善を厭ふなり。悪事を企む人は神の宿り居ることを知らざるが故に、神をはなれ居る人に多し。神は善悪邪正を嫌はず、すべてのものに宿り居るに対して、知ると知らざるとの相違はここにあるなり。善事を知りて善事を行はず、悪事にのみ囚はるる人も亦多からん。是等は肉体に囚はれて神を粗略になし居る人に多し。信不信は帰するところ神にあるなり。善悪邪正悉く神の力による。我斯く語らば汝等諸子は又迷ふならん。
 迷ひ迷はさるるもみな神の力による。すべては智慧なり。智慧も亦神の力なればなり。この理に基いて考察する時、大自然は神の力の働きによりて動ず。自然に順応すれば神は是を自然の力によって左右し給ふ故に、神を知ると知らずに不拘自然を知りて順じ居らば、神の力にすがりたる人となるは異論の余地なし。大凡全宇宙の中に住居をりて自然に恵まれ居る汝等衆人、その自然の力が余りに広大無辺なるが故に、自然の真髄に触るることを知らずために迷ふなり。然るに智慧なきものと雖も知らず知らずの間に行ひ居る動作が自然に合ふならば、その人は正しき道を歩み居るによって自然の恩恵に浴して、神の力に抱かれて軈ては神の家に帰ることを得る道理あらん。汝等然とは思はざるや。水は水より出でて水に帰る。雨あられ雪や氷或は雲霧のへだたりあれど、其は水としての行くべき順路に他ならず。帰する処は本然の水に返る。人も亦人として生れたる以上如何に経路が変化すとも人は人なるべし。人より出でて人に返る、是順路なり。然るに人と生れて人に帰らず、他の動物に化せられて或は獣類或は鳥類として歩みを進め居らば、尽きる処なく転々として本然の人に立ち返へることは難からん。水は水より出でて水にかへる順路あるとせば、人は人にかへる順路なかるべからず。然るに人より出でて人に帰らざる人は多し。水は行ぜずとも本然にかへる。この理を会得するならば人より出でて人にかへる自然の姿は、解することを得るならん。要は自然に順ずるにあり。順ぜざるが故に転々として他に変化す。早くめざめよ。然らずば人として何なるかを知ることすら得られざるべし。人より出でて人にかへる順路を知ることに成功せば、その自然を応用して人より出でて仏となり、仏より出でて更に神に迄移さるべき順路は、理解すること難きにあらざるべし。人より出でて人にかへることを繰り返へし居りては、同じ所を廻るのみにてぬけ出づること難からん。人にはかくも変化ある自然の恩恵を与へられ居るなり。人より出でて人にかへることのみにて終はるものならば行ぜずとも可なり。されど人より出でて動物となり畜類鳥類等々に変化せらるる底の自由を、諸子には架せられ居ることに着眼せば、人と生れしことの有難味は覚ゆる筈なり。人は他のものに化せらるる自然の力ある以上、仏とも神ともなるべき自由も与へられ居るなり。是を知らざるが故に迷ふなり。水は迷はず、己の本分に従ひ居るが故に、水として他のものに化することを許されず、故に永久水としてその分野よりぬけ出ずることあたはざるなり。然るに人は斯る不自由のなわめは解かれて思ふがままに上昇もなし、又下降もなす力をあたへられ居ることは何と云ふ有難きことぞと感謝せざるべからず。 
 水には智慧なし又魂もあらざるならん。人には智慧あり、魂あり。魂ある以上智慧の力は働く。是大自然の力なり。大自然の法則なり。故に魂を自然にまかせなば智慧は是に順じてはたらく故に迷はざるなり。草木には智慧なし。唯動ずるが故に同じ場所をさまよふの他なし。獣類虫魚にはわづかの心を有するによって智慧のはたらきあれど、是等も己に与へられたる分度の定まりあるによって、その悉くが同じ位置を廻転するにすぎず。汝等諸子は我等の説を聞きて既に尺度計をあたへられ居るならん。是によってすべてを計るならば智慧の程度、或は其等に対するはたらきの力は計ることを得るなり。尺度計を用いて人間の智慧を計ることも亦難きにあらざるべし。尺度計を正しく用ゆればすべての測定はなさるる筈なり。誤算するは尺度計の用法をあやまつが故なり。話はいささか横道に入りたり。もとに復すべし。

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