覚者慈音792  光明論上巻 巻の一  70番   テツシン貴尊講義

覚者慈音792
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.23
                  第70番


 教主、曰く


 「磨けば益々光強し。強き光は霊気を伴ふ。霊気加はらば作用は生ず。作用は即ち生命とならん」


 現在と異なり昔は金属の鏡なりしかば鏡研ぎを業とするもの多かりし時代に、或鏡研ぎ師の召使共得意先より錆鏡を集めて得意先よりいそがせらるれば、手間取れず、直ぐに研ぐべしと返答するのみにて容易に磨かざりしかば、店の主人召使共を戒めて一首の短歌を示めしたり。其句は「よせかがみまたもとずれどまてしばし、てまとれずともたまみがかせよ」と駄作を与へたるに、是は上より読むも下より読むも同じなるに召使共興味に引かれて其後は磨きに励みしと云ふ例話なり。とかく人間は己が業として生活なすにさへ斯くも等閑になすものにて、他に眼をうつし耳を傾けんとする傾向あり。鏡研ぎの召使達の如く磨けば手間取れぬと云ひながら磨かざれば得意先の迷惑は一方ならざるべし。
 天の使命を受けて人道をふまず、動物の道を歩み易しとて、是を歩むは真にあさましき限りならずや。汝等に於ても磨けば光り輝く明鏡は賜はりあるに、是をとぢこめて磨かざれば主人より磨かせよ磨かせよの命令は下るならん。心の泉は尽きず。此水にて磨きに磨くべし。汲むとも心の泉はいよいよ清くなるなり。教主は磨けよと仰せられたり。磨きて光が強くなれば霊気は伴ふと。銘刀を研ぎすまして燈火に照して熟視し見よ。見つむれば一種の霊気起りて何となく一種の凄味を感じて身に粟を生ずるを覚ゆるならん。是作者の魂とも云ふべきならん。太刀於てすら斯くの如し。まして心の鏡に於てをや。思ふだに血湧き肉躍るの感あらん。研究と云ふも磨くなり。こじつくれば磨くは身の学問と云ふも面白からん。汝等身の学せよ。磨けよかし。汝等は偶像を拝して神仏の加護を願ふならん。偶像は物言はず語らざるを知りながら、生きたる者に話す如く願ふは何故ぞ。即ち生きたると思へばこそ願ふならん。然るに偶像は己が身体に積れる塵をすら払ふを得ざるならずや。是即ち霊気なり。故に教主は霊気を生きたりと説かれたり。汝等の肉体は生きつつあればましてや宿る霊気こそ生きたる霊として働くは当然ならずや。霊界に学び教へを受け道を修する者に於てをや。反省して第二の銘鏡と同様の結果を得る迄励まざるべからず。是を修するには心にくもりを与へぬこと、日々を空しく過さぬこと、空虚ならしめて悪魔に隙を与へぬこと、油断して燈火を消滅せしめざること等々の修行こそ大事なり。斯くする事に依て明鏡は生命ある物の如くに働かん。生きて働く魂とならん。励め! 油断をなす勿れ!

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