覚者慈音786 光明論上巻 巻の一 64番 テツシン貴尊講義
覚者慈音786
未知日記 第六巻 光明論
上巻 光明論 巻の二
テッシン貴尊講述
2019.1.20
第64番
教主曰く、
「霊は霊を知り、気は気を知る。されど修行悪き者は霊気を混同するに依て霊光の感じをあやまつ」
一般人には良指導者ありて霊感を受けしむる人の少なければ、往々錯覚に陥り身心を過労せしむるに過ぎざれば霊感の得られざるは当然なり。霊は霊に通ずる故に、霊は霊に和かると云ふ道理を悟りて得たる現象にあらざれば霊感を受けたりとも、其働きは得られざるなり。されば霊と霊、気と気の完全結合したるにあらざれば正しき霊感によりての働きを全うするを得ざるは道理なる事も知られたるならん。
教主の霊気混同と仰せられしは霊を気体と教へ気を霊なりと誤信するを申されたるなり。霊は光、気は光にあらざればなり。気の感じのみにても亦霊の感応のみにても唯一方に偏る時の感応にては正しき霊感とは云ひ難し。霊気一体となりて感じて初めて威徳は顕著となるなり。汝等は友と同気相求むると云ふ。又気の合ったとも云へるは是霊感と異なることを知るならん。何時も気が揃って云々と何処より何処に感ずるかと聞かれても、唯何とは知らず好ましきと云ふ他なかるべし。是は意魄の波長か、又は同音共鳴か、又は協和音かの如く感銘するに等しきなり。霊と霊の関係も是に似たれど気との関係とは其趣を異にするなり。霊はもとより如何なる波長にも通ずれども中に其人の持つ個性の特別なる波長ありて、その同種波長にはわけて大きく和するなり。例へば音楽に見る何々調と云ふ関係の如し。一越調より上の一越迄(琴)の人ならばそは一越の個性、平調下無も皆其々の特有音あるに似たる関係と感知せば大体は察せらるべし。故に一越の人は一越の霊の人と和し、或は黄鐘か又は双調の人等に和する如しと思はば可ならん。此霊と霊との和する様は汝等に取りて一種不可思議に感ずるならん。今一例の話をなして参考とせん。
或武士親の仇を打たんとて旅を重ぬるうち、或日峠の茶店にて出会ひし、武士と懇意となり何か語るうちにその武士が意外にも仇として互に雌雄を決する事となりしが、敵のうでの勝れたるにや受け止めし大刀は折れて仇の足をいささか傷けたり。仇は刀をひきて小刀をぬけよと云ひしに、武士は少時ためらひ居たりしが、小刀を抜きて自刃せんとなしたるに仇は是を止めて勝負せよと奨めしかど、今は望みなしせめては親を打ちたる顛末を語り呉れよと云ふに、彼の語るよう。汝の父はいたく酩酊して我に無理難題を吹きかけし故、我謝したれど肯んぜず余儀なくぬき合はせたりしが、我は切ることを好まざりしが汝の父の余りにするどきに余儀なく落命させし始末と聞きて、仇うつ勇気も砕け其縁にて却って義兄弟となりしと云ふ実話あるなり。
此例話に依て説明せんに峠の茶店にて語り合ひしは霊感ならずして気の合ひたるなり。然して雌雄を決し居るうち既に相方の霊は活躍を始め刀折れしより全く霊と霊とが共鳴共通したる結果として義兄弟の縁を結ぶに至りたるなり。霊感と気の合ふとはかかる相違のあることも推知せば、自づと気を働かせ霊を働かす道は覚ることを得ん。即ち霊は共通性を有すれども気の本質を明らめずば気と気は相克をなすことあり。即ち気の合はざる人、例へば彼は心悪き人にはあらねど、何とは知らず気の合ははざる人なりと云ふ経験は汝等には体験あらん。人に好き嫌ひあるは相性相克の気の現はれなりと知るならん。修養のつみたる人は斯ることなし。