覚者慈音784  光明論上巻 巻の一  62番  テツシン貴尊講義

覚者慈音784
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.19
                  第62番


教主、曰く



 「霊感と云ふも鏡に映ずるなり。又錯覚も同様ならばここに迷想妄想と真想正想の区別を明らかにせざれば真のさとりは受け難し」



 彼は霊感を受けたり。我は神の声を聞くことを得たり。我は神の姿を拝したり。天の使い我に来りて語りたり等々の言葉、昔も今も変りなく聞く処、是に似たる言葉に幽霊の問題怪物談等々の話は現在は昔に比して、怪物変化の問題は少なくなりたり。然れば昔は怪物多く出現し現在は交通の便余りに発達して、人の往来頻繁になりたるにより妖怪も影を潜めたるか。呵々。又文化の程度高くなりて妖怪変化論には耳を藉す者なければ、妖怪も出づる張合なしと思ひて出現せざるか。呵々。何はともあれ昔と現在は人智は確かに変りたり。進みたるにはあらず。唯時代に即応して変化したるに過ぎざるなり。智慧の優劣の点は寧ろ古人は優れたり。何となれば昔の人は智慧を働かす範囲はせまかりしが、現在は余に繁多になりて万般にわたり居りて複雑化したるため、古人の如く一事を悠然と考へ居る能はざればなり。教主は霊感も錯覚も鏡に映る現象と説かれたり。されば錯覚と雖も是を無為に退くる事を得じ。依て是が迷妄か或は真相かの区別を明らかに区別せざればあるべからず。是を明らかに定むるは容易の業にあらねど、魂魄心意霊の五性の区を充分に自覚せば強いてむづかしく考ふる事の必要はなきなり。
 錯覚は心の疲労とか或は肉体の病気より来る影響は甚だしく、霊感は修行なりたる人に多し。錯覚の種類は極めて広き事は今迄に我もセイキョウも大体語りたれば省略すべし。錯覚幻影と雖も鏡に映じたる現象として是も神より作られたる一の形として研究すれば、夢も即ち一種の現はれと見なすことを得るなり。世に霊夢とか神夢とか虚夢迷夢など云ふことありて、昔の人は夢判じ夢占ひなどと称して東西を通じて書籍もあり、又学者間にも夢の研究をなし居る者も少なからず。然れども未だ確実に研究をなし遂げ居らざるなり。然らば夢なるものは一種の幻影錯覚として排除すべきかと云ふに是には唯一種信じて可なりと答へる理あり。是は他ならず、霊感による一の事柄のみ。他は殆ど五蔵の患ひとして等閑に附して可なるべし。霊夢即ち霊感より来る夢を正夢として取り上げて可なり。是は迷信妄信にあらざればなり。如何となれば無電放送を感受し居ると同様の結論に達すれば、是に疑義をさしはさむ余地なかるべし。病的の人はさめて夢見ることあり。梅毒性の人に多し。此種の人は高坊主を見たりとか云ふ事多く、よく調ぶれば身体疲労して病状が現はれたる時などに多し。斯る人は睡眠の不足せし時など道を歩みながら眠り居りて幻影を見る事多し。又二重錯覚することなどあれども是等を霊感とか、種々様々の迷信を引き起すを不審するは愚なり。霊感は斯る現はれは決してあるまじければなり。又霊夢は熟睡中真に魂魄安らかなるに映じ来る現象にして、夢に夢みる如き二重錯覚にあらざるなり。さめて全身汗にみたさるるは霊感なること多し。但し病人虚弱者はその限りにあらず。聖人は夢を語らぬは迷夢虚夢雑夢を語らざるなり。慈音は夜毎我等の許に講話を聞くを許されて来るは、決して錯覚幻影の迷夢にはあらず。是等については次第に論旨を語るべし。

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