覚者慈音783  光明論上巻 巻の一  61番   テツシン貴尊講義

覚者慈音783
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
               
                  テッシン貴尊講義
                  2019.1.16
                  第61番


教主曰く、


「汝等が身に具へある霊鏡の光を照して以て宇宙の反射を確知して学びの道を広くせよ」


 先づ汝等の霊鏡に照し見て地球とけしの実の一粒と何れが大なるかを見よ。汝等はこの譬喩にては脳裡への刺激は無かるべし。汝等事実に直面せずば脳裡への印象は浅薄なるべし。汝等は余りに小さき観念に囚はれ居て大事には無感覚なり。例へば隣家の知人空爆を受けて死したりと聞かば驚愕するに反して、戦死者数万と聞きても余り驚かず。嘆かざるのみか唯一席の話題に上すのみならん。此例は前にも述べたるに再記せしは他にあらず。即ち万人の死も事情によりては一人の死に匹敵する事あるによりてなり。汝等は心に具はれる霊鏡を知らざるが故に万死と一死との区を明らかならしむるを得ざるなり。されば霊鏡はすべての物の区を明らかならしむるによりて、汝等が賜はりたる魂(たましい)の鏡にかけてすべてを映じ見よ。一死に一滴の涙あらば万死に万滴の涙あらん。近所隣に死人ありても一本の線香をも手向けざりし老婆が、飼猫の死を悲みて僧を頼みて回向したりと近所の謗りを受けたりと云ふ話も一死万死の例話と何等異なる処なかるべし。心の鏡には斯る誤射れども霊鏡には斯る誤写はあらざるなり。
 汝等は文言としては心眼とか心鏡とかの辞句を用いて事実は空虚ならずや。又鏡の我を取れば神に等しとか、口には立派なる言葉を発して行ひにうつさず。何故に行はざるやと詰問せばそは其法を知らずと簡単に答ふるは呆然たらざるを得ず。汝等は口より行ひを先になさんことに力めよ。とかく不言実行は神の喜び給ふことは、教主は秘伝書に説かれたるなり。なす術を知らずとて口にのみ語るは偽はりならずや。偽はりは神の忌み嫌はせらるる行為なり。偽はらず、偏らざるは汝の魂なり。魂は決して偽はらず。素直にして包みかくさざれば宇宙の反射を心に伝へて、神の道を覚らしめて魂魄心意に行くべき導きとならん。
 立体鏡とは汝等にも具はりある霊なり。魂なり。即ち汝の親なり。汝の親はすべてを知る。是霊鏡に映り居る故なり。されば教主は宇宙の本体を体得して学びの道を広くせよと仰せられしはここなり。汝等は顕微鏡によりて細菌の発育旺盛なるに感心すれど、未だ宇宙の増減変化のめまぐろしさを知らざるならん。そは知らずとも可なり。然れどもせめては肉体の霊界を魂の霊鏡に映してその様を知らば宇宙の変化も推して知らるるなり。何となれば宇宙の様を最小限度に縮小したるは肉体の霊界と等しければなり。

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