覚者慈音550  三世と四世論  確定信仰と不確定信仰   セイキョウ貴尊講義

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の102
  第十一      確定信仰と不確定信仰    其の2                                                                    リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 己にかたきものを握り居らば如何なる圧迫を受くるとも微動だになし得ざるべし。然るに肉体の手は握る力あり。肉体の足はふみしむる力あれど心には斯るものあらざるべし。故に迷うなり。人は常に心の安定を得て微動だにせざる境涯に入らばここにはじめて仏菩薩の境地に達す。さとらば迷はさるるものにあらず。さとらぬが故に上下左右して心は安からざるならん。聖者の語りし如く神を離れて自然に親しめと教へしは此処なり。
 世人の中には神の存在を肯定するあり、或は否定するあれどその両者にはすべて神と云うもののかげを宿し居るにてはあらざるか。たとへば汝は人より一つの問題を課せられし時、その問題の答案が正不正不拘、問題あるが故にその解決を計らんとするならば、即ち残るかげは問題なるべし。此理より考察せば神と云う一つの問題が神の存在の有無に不拘文字か言葉が必ずや汝等の心に否、思いの中にかげを宿し居るならん。是によって推理せば神は必ずやあると云う結果に帰す。肯定するもの否定するもの即ち一様に神のかげを宿し居る結果にてはあらざるか。神は智慧を深めたかむる原動力と考へて推理し見よ。わが智慧の増大するは神と云う原動力ありての結果なりと云う結論に達せざるか。神と云う原動力ありて智慧をつくり智慧ありて様々の迷いをはらすとせば人は智慧によって仏となり仏は進んで神にかへる結果となると考うるともこじつけの理屈にてはあらざるべしと我等は考うるが汝等は如何に思うや。そは汝等の思慮にまかすべし。智慧なくんば迷いより度脱することを得ず。その智慧の源をたづね求むれば即ち神の心に合う。その極点迄到達せずば常に不確定信仰となりて迷いより迷いに入り、はてしなき不確定信仰は持続するのみ。確定信仰の位置に到達するを得ざるも亦当然なるべし。進むと思うも迷いにて退くと思うも亦迷いなり。
 宇宙は広し。汝等の世界はきはめて狭隘なり。されどその狭隘なる世界にありて一度さとりを得れば宇宙の如く無極無辺の世界は狭隘なる汝等が世界に於てそのまま開らかるること疑いなし。蟻は人の心を知らず。人又蟻の心を知らざるべし。蟻の人を知らざると、人の蟻を知らざるとにはそこに隔のあることを汝等は心づかずや。人には蟻の心を知らずともその動作を見るによって彼は如何なる思いにて行動なし居るやを人は知るなり。されど蟻は人の行動によって人の心を看破する智慧を有せざるは汝等もうなづくところならん。人と蟻とに於てすら斯る相違あるものを汝等は是等の道理より思惟して神と人間との隔を考へしことはあらざるならん。花は無心に開らきて人の眼を惹く力を有す。無心の花に於てすら人心をひきつくるそなはりあり。人無心にて神を惹きつくる力ありやなしやを又考へ見よ。

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