未知日記霊話集千八百二十一回  帰途案内記 NO237 世人の宗教に於て語り居る神と云ふは、九流界の人類の如きを考へ居るらん。然して是等の考へより天国或は極楽を聯想して信仰なし居るが故に、正しき宗教は現出せざるなり。世人の眼より見る時は、九流界は天国にも見え又極楽にも見ゆるならん。斯る所は天界の最低位に属すと知るべし セイキョウ貴尊講義


未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の四
最終の巻 
二流界、仮称霊空界     
セイキョウ貴尊 講述
                     


 (肉体を有する間にせめては三流界以下の事柄を聯想して修養なし、然して肉体消滅せざる間に九流界をつくる事に努力せば可ならん。)
  然することによって智識は進み、然して其智識のそなはるによって上界の姿は、次第次第に認識することを得るなり。肉体存在する間に九流界に至り居らざれば、滅後其以上の界に上ることは難かるべし。世人は現在の人生を最高と考へて徒らに自尊心のみ強くなし居れど、其は井中の蛙に等し。早く大海の広きを知らざるべからず。余事は兎に角空界に帰るには光源体気源体を一体化せしめざるべからず。この二体を一体化せしめんがためには両者に有する気素光素を先づ一体化せしめ、然して後その一体化せしめたるものを更に一体化して、ここに初めて霊空界となる関係をよくよく考慮すべし。気源体に有する気素光素は破壊分解の門に属し、光源体に有する気素光素は融和組織に属す。故にこの四大門をよくよく考へて、然して其四つの一体化したるものを、更に区分して破壊分解を気源体となし、融和組織を光源体として其両者を完全に組みたつれば、光気素ともなり又気光素ともなる。然してその両者を自由に応用する力を整ふるは、即ち霊空界所謂空源体性によらざるべからず。即ち光体或は或は気体と一方に偏りて用いるときは、破壊と組織は其々分離せられて一方に偏る。是が一体化することに依ってはじめて真の自由を得るなり。是を自然の力と云ふなり。世人の考ふる自然とは即ち光体か或は気体かの一方に偏りたるを自然と誤認し居るによって、正しき自然を認識することを得ざるなり。所謂一方に偏れば其は一方的自然にして、表裏の関係となるによって常に是非の論議を醸す。されど是が一体化することによって正しき道理と化せらるるなり。是等の理論も貴尊の説を聞きて明らかに会得せよ。世人の考ふる自然とは、相対的なるによつて、一体的の自然にはあらず。現在汝等が世相を見るに愛国心とか、或は人類愛とか称して、世を建設せんと計り居れど、すべては相対なるが故に、永久争闘を惹き起して常に不安の日を過し居るにてはあらざるか。世人の国家主義とか民主主義とか云へる言葉は既に一方的なるべし。
 所謂零点零の議論をなして、其にて国土を安からしめんと計るとも到底望みは達し難し。忠君愛国と云ふ東洋の言葉も、すべて大自然の意味を誤解なして大なる自然を曲解したる結果、是を人類に及ぼしたるが故に自然を離れて、一方的自然に変じたるが故に、その言葉が誤解せられて今日の如く抹消せられつつあるなり。忠君とは即ち宇宙全土を云ひ、愛国とは形ある地球を想像して考へ見よ。然る時は光体自然の理は認識せらるる筈なり。是を忠君とは君と云ふ人体を考へ、愛国とはその住める国民を考ふるが故に、今日の如く天皇廃止論等の如き小さき考へに縮小せられて、自然より遠ざかりたる横道に分け入りて踏み迷ひたる結果かかる姿と変じたるなり。君、君たらずんば臣、臣たらず。是を言葉を変へて太陽、太陽たらずんば、地球、地球たらずと仮に考へ見よ。然る時は聊か拡大せられて成程と合点する点もあるならん。

×

非ログインユーザーとして返信する