未知日記霊話集千八百十四回  帰途案内記 NO230 仏教に云ふ、涅槃に住せず、虚空に住せずと云ふ事は、即ち肉体に囚はれず、魂に囚はれず、両者をつなぎて一体化せしめよと云ふ方便の言葉なるべし。即ち一方に偏る勿れとの教へならん セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の四
最終の巻 
二流界、仮称霊空界
天職と人職について
セイキョウ貴尊 講述
                     


 されば心の持ちかたと云ふは身にも偏らず、又魂にも偏らず、常に平行して身魂を一体化ならしむる事によって、始めて三味一体となるなり。故に法に合ふ心の大切なることは、乱さざる底の心にあらざればあやまてば一方に傾く。肉体に囚はるれば魂をおろそかにし、魂に囚はるれば肉体を傷く。心常に平にして臨機応変の処置をなさんとせば、心に傷けざる用心肝要なり。気に掛る事多ければ法の心は乱るるは当然なり。即ち一つのを心にのみ任せ居りては、所謂法のみ働きてその処置を誤る事多し。斯る場合は魂の力をかりて法を行ひ、肉体の場合と雖も魂の力をかりて応急の手当をなさばその苦みは消滅する。故に法に合ふ心の用法の如何によっては、苦も楽に変ずと知るべし。先にも語りし如く気にかかる事は早く処置すべしと教へしは、心を乱さざることを語りたるなり。
 世人の気にかかる事の多きは大抵の場合肉体に関すること多からん。かかる場合は魂の教へを受くる迄もなく、肉体を働せてその事をはたしなば可ならん。又肉体の要なき事ならば魂の力をかりてこれに当らば、解決することは至難にはあらざるべし。斯くして心を常に平になし居らざれば、一大事に処して事にあたることは至難なり。
 仏教に云ふ、涅槃に住せず、虚空に住せずと云ふ事は、即ち肉体に囚はれず、魂に囚はれず、両者をつなぎて一体化せしめよと云ふ方便の言葉なるべし。即ち一方に偏る勿れとの教へならん。さとりて見れば訳のなき事の如く思はるれど、さとりたる事柄を事実の行ひに移すことは、容易の法力にてはなし難し。道理として自他共に是を認むる事と雖も、さて実行にうつさんとせば至難なること極めて多し。現在世人の世界に於て甲論乙駁なして相争ふ事柄に対して思惟し見よ。両者の説には必らず一理のあるものなり。されどその両者が理に基きて世に処して居ながら、互に其欠点を発見して又も丙論の湧き出でて、更に丁論と変化なし行くにはあらざるか。理に合ふと雖も正しきさとりを得るにあらざれば理にして理ならず。甲論乙駁するはもとより理ありての事なるべし。甲に偏らず。乙にかたよらざる真の道理はさとるに不如。さとりなば甲論も成立し乙論も亦成立す。世人はこの理を知るや。禅門の問答に似たる論旨なるが故に世人には宗教くさく感じられるならん。されど我等は宗教者にあらず、世人を導くには必要の言葉なるが故に語り居るなり。世人が日々行ひ居ることのうち例へば路傍を通行する時小児が倒れたるを見て日本人は直ちに抱きおこすならん。然るに外人は是をなさず。是等に関して世人は何れを正しきとするや。現在日本人は是を誤解して小児が倒れしを見ても通り過ぐる人多かるべし。然して彼に云はしむれば外国人の説は正しきが故に、日本にて是を行ふなりと云ひ居るを聞く。是等の事に対して模倣的なる考へを抱き居る人の多きは遺憾なり。周囲の関係を見て臨機応変の処置をなすにあらざれば正しきとは云ひ難し。抱き起しやらざれば悪しと見る場合もあらん。又放置なしをくも可なりと見る場合もあらん。其時其場に処して行ふにあらざれば、正しき法とは云ひ難し。斯る些細なる事柄に対しても皆其々理を論じて実行し、其が却て悪影響を引き起し居る事多からん。所謂一事は万事なり。

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