覚者慈音202  未知日記講義第一二巻  大霊界  果して相対絶対の区別ありや  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO154
 果して相対絶対の区別ありや        その3                                                   教主寛大 講述


 兎に角空なり。空より空を追ひ求めてははてしなし。虚と云ひ空と云ふもすべては空なり。その空にして感じ来る様々の姿こそ、みな心の空に対する相対関係より生ずる現象にすぎず。されど空は空なり。虚は虚なり。されば絶対空とは何かに対して考慮し見よ。他人より罵られて怒るも空なるべし。褒められて喜ぶも亦空なるべし。是相対関係なるによってなり。
  今慈音が我に対して「斯る事を教へらるるとも世の中の人は、耳を籍すものあらざるならん」と我に告げたり。我も亦然りと答へたり。我何故に斯るまぎらはしき訳の分らぬことを語り居るや。徒に紙面を汚すのみにて何等効果なきことを、くだくだしく語りて何の益かある。道を求むるもの我心をよく諒として読むべし。この中に含まれたる無言詞こそ大切にして、ここに無言詞界大霊界の極妙を此まぎらはしき言葉の中に含ませ居ることと知りて、五月蠅さしとか面倒臭しとか云ふ如き考へにて読むべからず。五月蠅さくとも面倒臭くとも幾度かくりかえして読むべし。然することによってこの文意の中に無言詞の力が含まれあるによって、汝等諸子の心の中に深く喰ひ入りて、その無言詞が作用をおこすに至らば、諸子は大霊界の姿を眼のあたり見聞することを得るなり。誓ひて我は認めさせ居るなり。


この書の冒頭にテッシン貴尊が緒言として説かれている言葉をここに引用します。この箇所を理解するうえでとても重要です。是非とも参考にしてください。



 教主寛大、我、テッシンを召されて曰く、汝、テッシン、我、この書を講ずるにあたり聴講者の心構へを知らしめ過失なからしむるよう、汝の口より予め彼等に語りをくべしとの命に従ひ、是より汝等に緒言として語りをくべし。
教主寛大に於かれては此書を、否此講義を最後としてすべてを語り尽さるる由なれば、
一言一句聞きのがすことなく、又見のがすことをせざるよう心をこめて聴講すべし。
寛大は如何なる言葉を以て語らるるや、又如何なる文章にて説明せらるるやは、我のあづかり知るところにあらず。されどたとえその言葉その文章の巧拙に不拘、決して是に批判を加へ、或は辞句を改むる如きことをなすなかれ。はじめこの書の題目を無言詞界と名づけて語らんと遊ばされしに不拘、俄に大霊界と改められしには決してあやまてる考へより出でたるにあらず。言葉なき世界を語るに言葉を以てするは、是正しき教へにあらざることを始めより諒とせられ居給ひしが、さりとて言葉を以てせずば衆人を導くこと難し。故に大霊界と名づけて無言詞界を語らるるにすぎざれば、諸子もよくよくその意のあるところを諒として聴聞すべし。
古来より日本は言霊の国と称して言葉に魂を通はせ居たりしに、現今はその言葉に制限を加へたるため後世、此書を読まんとするものありとも読むあたはず。理解することを得ざれば、如何に真実を語るとも無意味の書とならんことを、教主はよくわきまへ居らるるによって、此書の文体或は言葉等、すべてに意を用いらるる事と我等は承知す。教主は名文美文を好み給はず。後世に到って誤ちたる解釈をなすものあらば、残して詮なき廃書となるを深く慮っての教へなれば、よくよく心して教主の言葉に批判を加ふることなかれ。又文書言葉の拙なしと嘲りて、軽々しく聞きのがすことをせざるやう注意してかしこみて聴くべし。
前編の終末は無言詞にて終りを告げたり。後編なる此書に於ても亦無言詞にて終りとなる。されど前編と後編との隔たりは非常に相違あり。教主の最後の教訓は我等も共に威儀を正して拝聴す。汝等此恩恵にあづかる者、慎みかしこみて拝聴すべし。唯心の表面に止めをきて聴聞せば其は空しき結果となる。されば心の底迄徹底せしめて拝聴せよ。一時的の感情に囚はれて教へにあづかることなかれ。
ここに注意することあり。其は他ならず。教主は衆人に語るに言葉を以てするにあらず。故に千人万人悉くに通ぜしむる教へなれば、聴く人見る人の智慧才能の程度に応じて法を説き給ふ。されば聴く人見る人の智識の程度によって各自異なる感じを抱かしむることは、是即ち無言詞教授の法なるによってなり。此事あるによって一人はかく感じ、又一人はかく感ずと各々才能の程度に従ひて思ひを異にすれど、帰するところはすべての衆人を言葉ならぬ言葉によって、導き給ふことと承知せよ。言葉なきが故に感じを与へて、其によってすべてを導き給ふなり。かかる教へは教主ならではなし得るものにあらず。かかる尊き恩恵によって天界に導かるる諸子は、唯々感謝の思ひを蓄へて他のことに意を用いず、一路教へに従ひて進まれよ。後世此書を読む人と雖も、現在の諸子と同様に導かるる力具はりある事も併せ語りをくべし。
先ず是等のことを予備知識として深く心して聴聞見聞せば可ならん。やがては教主出座し給ふべし。つつしみて聴聞せよ。是緒言として衆人に語りをくこととせん。

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