覚者慈音201  未知日記講義第一二巻  大霊界 果して相対絶対の区別ありや  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO153
 果して相対絶対の区別ありや        その2                                                    教主寛大 講述


 兎に角人は確かなるものを求めて是に縋りて安全を計らんとするは一般の風習にして、そのたよりとなるべきものを追ひ求め居るが故に彼是とさまよひ尋ね、然して其によって安全を計らんと悶え苦みて、却って苦みより苦みへと歩みを重ねつつあることは事実なるべし。未知日記に於て自問自答の法を教へられて諸子は未だ気附かざる点多からん。己に問ひ己に答ふ。是絶対にあらずして相対なるべし。心に問ひ心に答ふ。其は空と空の対照なり。空と空との問答なれば即ち問ふもの答ふるものの両者が対立なし居るにてはあらざるか。然りとせば空も亦絶対にあらざる道理あらん。汝等諸子の苦みと云ふは何なるかを考へ見よ。肉体の苦みは肉体の欠陥ありてのことなり。されどその肉体の苦みより堪え難き苦痛を感ずるは即ち心なるべし。肉体のはたらきが静止なさば如何に傷けらるるとも何等苦痛は感ぜざるなり。故に肉体の欠陥より苦めらるるところは心なるべし。所謂空の悩みに堪え難く悶え苦むとせば、傷け傷けらるるものは帰するところ空にあるなり。心に傷くが故に心は耐え難し。是絶対にあらずして相対関係となる。肉体にも傷かず、心にも傷かざる時は平穏なり。その平穏の長き間を諸子は願ひ居るならん。頼むべきものを求めて其れに縋らんとするは相対関係より生ずる現はれにして、若し頼むべきものを必要とせずば其の時こそは絶対となりて真の自由は得らるる道理もあらん。子は親を求めて離れず。されど親なくとも子は育つと云ふことも亦事実なるべし。
 汝等諸子は年長けて何か頼るべものをたづね求めんとして、己より優れたるものを択び居るが故に、神とか仏とかをたづね居るならん。己、孤独とならばその淋しさには堪え得らるるものにあらず。孤独となりたるものを絶対と見るならば、絶対に帰れば其淋しさは一層深刻なるべし。故に孤独を絶対とは云ひ難し。この事より考へを廻らさば相対即絶対、絶対即相対の境涯に入らずば真の絶対を知ること難からん。相対即絶対とは時間空間数を有する考へにて推定せんと計らば、何処迄追ひ求むるとも絶対を知ること難し。汝等諸子は人として地上に置かれたる幸福を知らざるは、即ち絶対を知らざるが故なり。汝等の心は何処に宿り居るかそのことすら知らざるならん。学者は頭にありと称へ居れど、それは一部分の考へなり。部分的に考察すとも其は肉体よりの考察にすぎず。我等の言はんとするところは斯る部分的の意味にあらず。心の喜怒哀楽は肉体の刺激のみによって生ずるものにあらず。又脳髄の如何によって定まるものにもあらざるなり。是を深く研究すれば医学上に於ても更に大なる発見することもあらん。されど我等は学理によって諸子を導かんとするものにあらねば、ここに脳髄のことに関して彼是論議することは避くべし。         

×

非ログインユーザーとして返信する