覚者慈音970 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  正悟と迷悟  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音970
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
正悟と迷悟



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.05
                      240番


 先刻つい昇天の行者達が教主寛大の考査(汝等が世界の試験)にあづかりしもの、教主が吐き出す毒気に打たれて墜落せしは半数以上に達したるを見ても、如何に正悟を得たる者の少なきを知るならん。昇天の行を受くる底の修行をつみたらば、教主の毒気に平然として、是を受け入るる悟の力を保持する者ならでは第一の関門は通過するを得ざるなり。汝等は悟、悟と口に称へ居れど正悟は容易にさとるを得ざるなれば一工夫ありて然るべし。教主の導きは恰も太陽の地上を照らすに異ならず。一見平凡の如く見ゆれど、深き恵の多き事を知らざるべからず。汝等の為に我等が依頼に応じて常に俗中の俗言を用いてさとされあれど、若し粗悪下劣とて学者間に於て筆を加ふる如き過誤をなさば取り返へしのつかぬ失態を来すなり。故によくよく翫味して考察すべし。されど我等が教への言葉は、教主の如くならねば汝等随時筆を添ゆるも差支なし。
 さてさとり見れば案外他愛なき事も覚る迄の苦心は容易ならざる事の多きも、よく衆人の口にするを聞く。汝等のさとりの意味と我の説かんとなす悟とは隔ある事に気附きたり。依ていささか是等の事柄について述ぶべし。汝等は一題の難問を解決せば一つの悟を得たりとして喜ぶならん。然して百千の難問をも容易に解決する人を悟をしたる人と考ふるにてはあらざるか。もし然りと答ふるならば其は大なる誤ちなり。此人は悟したるにあらずして智慧優れたる賢者にして覚者にはあらざるなり。賢者と覚者の相違については今更蝶々する必要も無からんと思へど、汝等の中には未だ解しかぬるもあらんことを慮って一例をあげて参考とせん。
 或所に放蕩息子を持てる父親ありて種々意見をなせども馬耳東風一向に効果なく持て余しあまし居たりしが、さる方に高徳の人あるを聞きて彼が門を訪れて、息子に意見を頼みしにその当座は柔順になし居たりしが程経て又も、放蕩を初めその都度依頼するも暫くしてもとに復す。斯くすること幾回なるに徳者ももてあまして父に語りて云ふよう、「我の力にては到底及ばじ。されど我汝に一人の徳者を紹介せん。彼が許に伴ひ行けよ」と命じたるに、父親は息子を伴ひ第二の徳者に到りしに彼は息子の顔をしげしげ眺め居たりしが、唯意見がましき言葉を出ださず唯一言「不憫の者よ」と云ひしのみなるに、息子は座に居たたまらず泣き伏して父に向ひて、罪を謝し其後は生れかはりし人の如く、放蕩はもとより止まり孝心厚くなりたりと云ふ例話なり。
 即ち最初依頼せし徳者は、賢者にして後に依頼せしは覚者なり。賢者と覚者とには斯くの如き相違あるなり。賢者は智慧によって改めしめんと計れど、覚者は霊によって自覚を計りによって結果に於て格段の相違となる。即ち智慧は魂魄の働きにして、悟したるは霊の智慧なるによってなり。 

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