覚者慈音971 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  正悟と迷悟  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音971
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
正悟と迷悟



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.06
                      241番


 唯最初の智者は魂魄の智慧なれば、息子の魂魄との間に隔あるを以て一時は通ずるも直ちに消滅す。即ち賢者の魄と息子の魄との間には恰も襖をへだてたる如きへだたりあり。魂と魄にも同様の関係ありと知るべし。襖を開らけば通ずれども閉せば通ぜざるなり。即ち魂魄を一重の隔とせば心意は二重の隔りの関係あるなり。今是を詳細に説明すれば魄を一重魂を二重意を三重心を四重の隔とも見て可ならん。さればこそ初対面の人とは心の関係なるに依て隔も多く交際を重ぬるに従って意の交際となり、魂の交際、魄の交際と次第に隔の襖は取り外されて親しく通ずるに至る。又同じ心の中にも隔の多少あり。意魄魂にも同様厚薄の隔もありと知るべし。汝等親子兄弟間に於ても親愛の程度の異なるは魂魄の隔に厚薄の相違に依るなり。又同じ他人に於ても一目見て何となく親しみを感ずるあり。是等はもとより気光素の波長が共鳴するは前にも述べたる如くなれど、是等も心の隔或は意の隔の厚薄の相違によると知らば可なり。然して交際の程度たかまり親密の度増すごとに隔の襖は取り外されるに等し。例へば初対面の人は応接室に通し追々親しくなるに従がって己が部室に通す等の如しと考へて可ならん。人には心の智慧ありて心としての交際をなす。意魂魄に於ても皆個々の持つ特性の智慧に依て交際をなし居るなり。是に依て人々の交際上親密の程度は相違す。されど是に反し霊には隔なければ常に一定の共通を計りあるなり。されど霊にも力の相違あるなればここに感銘の程度も異なるは当然なり。
 例へば釈迦キリストの如き大智あり。或は汝等の如き小智ありて智慧の程度も一様ならざる人間の天分に依て、霊の智慧に相違あるは神の定められたるなれば是非も無き事なり。されど霊と云ふには釈迦キリストも汝等も毫も変りなきなり。恰も一室についても二畳三畳の小さきあり。千畳万畳の広きあれど、室と云ふに変化(かはり)なく、霊にも優劣なく霊と云ふに異なる事はあらざるなり。賢者と覚者の例話に見る如く賢者は息子に意見をなすは魂魄の襖を開きて語るに等しければ、一時は感銘なして品行を改め居れど魂魄の襖は閉さるれば又も旧に復すなり。恰も小児が学校に学ぶ間は教師の命に従ひ居れど家庭に帰れば忘るるに等し。是とは異なり覚者の場合は霊と霊との働きなるが故に、是をへだてありし魂魄の閾を外せば既に通じあるによって相和するなり。恰も池の樋(とい)をぬきて田に落とす水に等し。又田と田のあぜを開きて一つの田に化せしめ水は一体となるに等しきなり。故に一度同化すれば再びあぜを作らざる以上一枚の田として変ることなし。覚者は息子に対して霊の水を送りて是に和せしめ同化なしたるに依て、彼は品行を改めたるのみならず覚者の霊水に化して孝養を尽す底の人となりたるなり。

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