未知日記霊話集千百五十五回 光明論 下巻 巻の九 先づ第一に眼に映るは多くの見聞者とは別個の遠くに光の衣に包まれたる如き感じあるを見るならん。彼等は立体鏡にて見たれば汝等には察せらるるならん。即ち彼等は神の下僕なれども未だミキョウの座を許されざる者共にて、恰も汝等の世界にて云ふ土人とか野蛮人とかに匹敵するなり テツシン貴尊講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第四章 セ ン の門


                  テツシン貴尊 講述
                 

 フクの門は未だ融和の法に合へるにより三満一欠の境涯にをかれたり。されば是を組織して四満四光となさざれば完全なる世界とは云ひ難し。故にセンの門よりは組織の教へは許されて学する道に就かしめんとす。汝等あせらず気ををちつけて学ぶべし。此処に注意なしをく事あり。そは他ならず。センの門は其範囲極めて広大にして其全体は到底見聞なすことを得ざれば、僅かに其一部を見聞するに過ぎざれば予め其心して見聞すべし。
 フクの門より拡げられし法網は次第々々に発達し行きて軈ては凡てを組織するなり。是を汝等に理解し易く説明せばチの門よりジョウの門迄は樹木の花を開きたるに等しく、ギョウの門よりは花散りて実をもたらせ、軈てフクの門にて形整ひてセンの門にて全く成熟なしたる姿と思はば可なり。是を人生に称ふれば前半生期をギョウの門、後半生期をセンの門にて終ると云へること前述したる如し。然しながら是は一般人の比喩なり。汝等の如く修養をなさんと志す者には此比喩にては完全ならず。即ちジョウ迄を人間性として、セン迄を神子性即ち神の子として修行せざるべからず。故にジョウ迄は人類としてセンに至って全く神子性の結果に至らしめざるべからず。汝等はその慾望を貯へて学ぶべし。望みは如何に大きくとも可なり。自ら神の子なりと思ひて可なり。神は怒り給はさればなり。フクの門にては果実は未だ食する能はざる程度なれど、センの門よりはやや成熟して食し得る程度と化し、然して次第に甘味を加へ行くと思ひて見聞すべし。詳細は門を開きて徐々に語らん。
 先づ第一に眼に映るは多くの見聞者とは別個の遠くに光の衣に包まれたる如き感じあるを見るならん。彼等は立体鏡にて見たれば汝等には察せらるるならん。即ち彼等は神の下僕なれども未だミキョウの座を許されざる者共にて、恰も汝等の世界にて云ふ土人とか野蛮人とかに匹敵するなり。よく見るべし。彼等は何をなし居るかを。汝等の眼には唯右往左往上下しあるを見るのみならん。此事は後に語るべし。然して汝等眼に遠しと思はるる方向を熟視し見よ。フクの門の末端とも思はるる波紋が明滅しつつあるならん。其波紋が明滅する毎に物凄き音響と眼を射る如き不思議の光が同時に起りて、汝等の心は恐怖に戦くを静止する能はざる程度ならん。されど案ずる勿れ。身辺に危険はあらざれども此音響と光のために、講話を聞き洩らし見のがす事あるにより眼を閉ぢて見聞すべし。如何に眼を閉づるもすべては明白に見ゆれど、音響は聞えざるならん。是は心眼心耳は肉眼肉耳に勝りたるを悟りしならん。我等今より肉眼心眼の言葉を廃して人眼神眼(神のまなこ)の言葉に改むべし。何となれば此門を許さるるものには肉眼肉耳にては見聞なし難ければなり。故に人眼(人のまなこ)人耳(人の耳)なる言葉を以てせん。汝等是を諒とせよ。

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