未知日記霊話集千百五十二回 光明論 下巻 巻の九 我等と雖もすべて姿はあらざるなり。されど慈音に対しては我、過去の姿を送りて見すれど、其は慈音の目標となし居るにて、慈音は戒律を解かれて此かた斯る行為はなさざるなり。汝等百万年祈願なすとも神の姿を見ることは難し テツシン貴尊講義

未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第二章 フ ク の門
二重魂とは


                  テツシン貴尊 講述
                    

 所謂二重魂と云ふは汝等に分り易く説明すれば汝等人と語り居る時、戸外に何か変りたる事を耳にしながら話を続くることあるならん。即ち其様に相似たることと思はば可なり。汝等の昔語りには名裁判官一時に数人を審判(さばき)しと云ふも皆二重魂の理由に類するなり。然らば是を救ひし魂は何処に運ばれしかはセンの門にて語るべし。
 さて是等三つの話は何故に語りしやと云ふに何れも汝等の修養に供せしは勿論、延いては修行としての資料として語りしなり。即ち三満一欠は破壊に属し、入門し来りしは分解に属し、最後の脱魂せしは融和に属すことも察するを得たるならん。汝等事成就せしめずして終らば即ち破壊分解融和の方面を充たすのみ。組織ならずば神は許さじ。許されずば一方に欠陥は生ず。故に一欠となるなり。汝等三満一欠となる勿れ。是を汝等の身心に引用して考へを廻らして横道を歩まざる用心せよ。然して凡てを愛し愛さるる修養をなし、脱魂者の如く哀れなる弱き者はもとより迷へる者を導きて本然の姿に立ち返らしむべし。汝等使命を全うせんか。必ず神に帰る。即ち神より出でて神にかへるは順路なり。拋げし飛礫(つぶて)となる勿れ。放ちし弓矢となる勿れ。我等見る処聞く処凡ては弓矢の人の多きは真に哀なりと嗟歎(さたん)す。
 元来フクの門は第二の融和門にて、キュの門と表裏一体の関係あり。さればキュの門の融和と此門とは二重の関係あることも亦見のがすべからず。(キュの門参照)我、汝等の世界に於ける宗教信仰者を見るに其多くは神とか仏とか無形を有形たらしめんが為の念願にて祈り居る者多きを見る。故に錯覚信仰となり、其錯覚より更に迷信を併発して恰も狂人的信仰者となるを見ては実に言語に絶する哀れさを感ずるなり。
 フクの門を見聞したる汝等にして斯る錯覚信仰に陥らば由々しき一大事とならん。然らば我等は何を信ずれば可ならんかとの質問なるべし。答は一言に尽るなり。即ち人智を捨て神智を信ぜしめよと。信仰は難かしく考ふるとも決して極致を究めらるるものにあらず。況や人智なるに於てをや。汝等百万年祈願なすとも神の姿を見ることは難し。我等と雖もすべて姿はあらざるなり。されど慈音に対しては我、過去の姿を送りて見すれど、其は慈音の目標となし居るにて、慈音は戒律を解かれて此かた斯る行為はなさざるなり。まして神に於れては斯る愚しき振舞をなし給ふことはあるべき道理なければなり。

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