覚者慈音622 気源体性

覚者慈音622


未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音
第三章       気源体性


第五節



              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 幼児は未知の人の気光素を計りて後にあらざれば抱かるるものにあらず。是即ち自然の姿なり。猛獣及び狂人の恐ろしきは即ち気体性が光体性に変化し、品位高き人の威厳は光体性が気体性に変化せしなり。換言すれば組織線が破壊線に、破壊線が組織線に変化せし所以なり。医者が病人に対して安静と心の平ならん事を要求するは此理に基づく。然れども唯心平なれと勧むともその方法を示さずしてして行はしめんとせば、却って心を労せしむる結果となる。
 心を働かしむるは耳鼻口より誘はる。盲目は見えざるに眼を働かさんとするも心の働きに他ならず。眼を閉づるも網膜の幻影は避け難し。発言を制せよと命ぜらるれば心に語る。斯る事の行はれて如何に平静を保たんとするも得べけんや。是には其方法なかるべからず。心身の安定は病者にありては眠るにありと云へども病状によりては許されざる事もあらん。さればこそ心を平静にせんとせば汝が親に問へ。如何に智者学者なりとも常に心を平ならしむることは、容易に考ふれど行ひ得ること難し。是は容易の業にあらず。汝を知るは汝の母のみ。故に親を頼まざるべからず。是を己に施し、且つ他人にも用ゆる法あり。行者が加持祈祷を行ふにあたり勿体ぶるは暗示を深くせんがためなり。暗示を深くせんがためには己を信ぜしめざるべからず。故に様々の事をなせども結論は暗示に依るなり。暗示は気光素を増すが故に、病苦或は精神の苦痛も清除せらるるなり。催眠術感応術の応用は、気光素拡大に基因す。魔法と云ふは是を破壊性に依らしむるものにて探求せば愚の如く魯(ろ)の如し。敢て斯ることに意を奪はれて、一大事の修養を怠り心身を奪はるる事勿れ。慈悲心は気光素を増し、悪意は破壊線を増す。故に人は慈悲の心を起さんことを修養すべきなり。自己、力あらば是を施し、力なくんば愛することを心掛くべし。仏教者の云ふ平常心是道と云ふも此理に合ふなり。



 愚の如く魯(ろ)の如しの意味 googleより


 南嶽懐譲禅師のもとで修行していた馬祖道一禅師に、南嶽が「坐禅をして何をするか」と問うた。馬祖は「成仏しょうと思う」と答えた。すると、南嶽は瓦を一枚持ってきて磨きだした。そこで馬祖は「瓦を磨いて何されるのか」と問いました。南嶽は「瓦を磨いて鏡となす」と答えたので、馬祖は「瓦を磨いても鏡にならず」と問い返すと、南嶽はすかさず「坐禅して仏となるのか」と言い放った。


  「瓦を磨いて鏡となす」も、「坐禅して仏となる」というのも、ともに所得せんとする心のあらわれです。馬祖には坐禅して悟りを得ようとする心があった、けれども南嶽はその心をへし折ってしまわれた。


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