覚者慈音519

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の72
  第五一      更に進んで大智まで
                       NO2                          
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 余事は別として動物根を清浄して人間智を得るに至らば肉体観念は失せて精神観念は強くはたらくにより、肉体の箱に何時も納まりあるものにあらず。故に宝のはたらきは強し。肉体に囚わるる人は肉体の箱に意匠を凝らし金銀をちりばめて宝よりも箱を大切になすに依って宝の箱の内に眠るの他なし。されば重点は精神に置かざるべからず。もとより肉体即精神、精神即肉体の関係上肉体を放棄して精神のみに囚はるるならば是も一方的となりて是又肉体を傷くる憂あり。されば身心一体となすべき修行こそ大切なり。誰しも修行中ややもすれば肉体にひき戻されがちとなるものなり。是摩擦根と魂魄との折合はざる故なれば注意せざるべからず。魂魄整い摩擦根を同化せしむれば其にて小智の境涯は脱したるなり。世人はよく老人より聞かさるる話に「年老いたるも心持こそは昔と今も変化なし」と云うことなり。肉体に変化あれど精神には年齢なしとの意味なるべし。然りとせば精神には未だ修養修行の余地は多分にあるなり。即ちさとりは完全ならざる故なり。小智のみにては稲穂の現われたるすぎず。是より中智に進めば肉体に相当する稲に肥料の必要なく次第に稔りを深くなし行くなり。今我ミキョウ講義のところに教主の声あり。曰く、今日は日本の十月十四日(昭和二十二年、西暦千九百四十七年)なり。慈音は明十五日より新しき段階に移さるるなり。依って彼が今日迄なし来りたる行中の苦しみを欣情に語りやりて長く下界の人の修養資料となさしめよ。然らずば慈音は死すとも人には語らざるべし。斯くては彼は余りに不憫なりと申されたれば、我是を奉じて語るべし。
 今慈音が修し居るは死後の行とて生きたる屍を下界に置き、魂魄は浮住界に置かれあるなり。故に彼は時をきらはず、浮住界と下界を往復なし居るにより恰も死したる如く、又生きたる如く半死半生の苦患を味い居るなり。彼、浮住界の様を見て涙を感じては泣き、泣きて教主の叱咤をうけ、下界に帰れば浮世の人をも愛するあまり様々の事柄を見ては又も教主の叱咤をうけ、又愛孫の病苦に対しても己の力ぬかれありて如何ともならず気を焦たせては又も教主の叱咤をうくることしばしば、更に又人死して浮住界の苦患に堪え難きを知るに依って死せしと聞かば不憫を感じては、教主にせめられ、浮住界より下界に帰れば非常なる渇を覚え湯茶を求めて容れられず促しては又せめられ、斯くする事九十七度なりき。斯る事ならばさしたる苦しみのなからんと思うならん。されど今食事をなし居る時俄に魂をぬき取らるるかと思へば忽ち転動なし、不浄場に至らんとしては転動するなど斯る事をくり返へさるれば肉体はもとより精神的にもその苦痛の堪え難きは行ぜざる者の知るところにあらず。この他苦痛なる事は他人と対座しある中、魂をぬかるれば相手に言葉を送るあたはず、心意の苦しみを味う等列挙すれば限りなし。されど彼はかかる苦痛を他人に語らず。云はざるは何故ぞ。彼はすべての人を救はんがための行なれば己自らの苦を他人に語るの要なしと思うに依ってなり。彼年老いて何故斯る事を求めてなすや。斯る事をなさずとも彼は天界に移さるる人なり。何を好んで行ずるや。彼は己の位置を高めんとの野望を抱き居るか。然りとならば彼には教主の許し給はざるところなり。彼は自らの手柄など夢にも考へしことなし。人を救うべき法力を封じられしを苦痛と考へ居れり。この他列挙すればかぎりなし。


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