覚者慈音520

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の73
  第五一      更に進んで大智まで
                       NO3                          
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 教主に於てすら慈音は珍らしき人なりと仰せられたるを見ても彼のすぐれたる事は知らるるならん。欣情よ。今後に於て手の自由を失い居る慈音なれば、点筆を執る事もなし難くなり、又足腰たたぬ苦しみに臥床すとも彼が枕辺に筆を執りやるべし。然する事に依って汝は行ぜずとも大悟することを得ん。是慈音が汝におくる報酬なるべし。
 今や慈音は中智の末期の行をなしつつあり。もし無事に修行なすならば大智の人となるなり。されど彼は己自らのみなれば斯る事を望まず、唯天界を望むにすきざらん。相対智の間の場合は絶対ならざるにより何事に対しても看破せんとなすによって弱はきものは其に圧倒され威圧せられて近寄る事を恐れて来らず。即ち相対智は圧力なるが故なり。されど中智の境涯に至らば引力性に変化して親しみ深くなるによってすべては来りてなじむ力に変ず。故に人を教化せんとならば絶対智ならざるべからず。この理は光気素と気光素との相違なる事は世人は承知なし居るならんと思ふなり。虎の威をかる狐共が天皇の威厳を悪用して国民は威圧に依って治められたる報はてきめん、日本は今や亡びたり。是天皇の罪にあらず。然るを罪人の如く押し込めて有名無実のごとくになして今後は憲法なるものの威厳によって又も威圧の手に代へんとは、はてさて笑止千万なり。世を治めんとなす政府の徳に国民は慈母に接する如く集り来る政治ならでは真の民主主義政治とは云い難し。枝道に入りたり。もとに復すべし。
 兎に角威圧するは相手を低く評価せずばなるものにあらず。故に相手が強ければ却って己は威圧せられて目的ははたされざるべし。威圧せんとする心は自尊心の強きなり。されば其は正しき悟りにあらざるなり。相対智のはたらきは斯る関係上或場合には成功し又或場合には不成功に終るなり。されど絶対智は融和を完全ならしむる引力なるにより自他の区別なく、即ち自即他、他即自の関係あるなり。所謂肉体の皮膚と思うべし。皮膚は何れにても傷けば出血して痛みを覚るならん。世界の人一人と雖も悩まば我の痛みを感ずるに至らば凡てをうとんじ軽んずる事を得んや。絶対智と相対智とは斯くも相違あるにより従って善悪正邪の場合に対しても又相違あるなり。
 例へば未知の人と既知の人と争い居るを見ば相対智より考うれば事の善悪如何に不拘、既知の人にくみするは一般の心理ならん。されど絶対智より見る時は既知と未知の区別なくすべては我なりと思う関係上事の理非曲直を明らめてのち相互を円満に和解せしむる道を択びて何れにもくみすることをせざるなり。又相対智は悪を斥けとなす傾向あれど、絶対智は悪を引き入れて是を手放さざらん事に力むるなり。もし幸に善に化する事を得ばこの上もなき喜びなれど、然らざれば善に対して被害を加うるを憂ひてなり。故に天魔鬼神と雖も慟哭せしむる力あるべし。此他説明する事限りなれけど紙数限度あるを考慮して此辺にて終るべし。大智のはたらきについては未来篇にて説明せん。


慈音師が使用されたと思われる点筆と点字盤

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