覚者慈音494

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の48
  第三十八     人魂と獣類魂について                                       その三              
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 泰岳は猛獣の頭を撫でながら「汝は我と遊び度しか。哀れなるものよ。今一段苦しみに堪えて次は人となれよ」と語り居るを我は聞きたれば門兄に向いて、「汝は猛獣の苦楽を如何にして知るや」と、問いたるに彼答へて曰く、「獣の体には火が燃えて居るからだ」と云いたり。我重ねて「其が汝に見ゆるか」と訊けば其時ばかりは「然り」と答へたり。我、又「如何なる火が燃えるか」ときけば「肉食するものは赤き火にして、然らざる食をとるものは青き火なり」と答へて更に語をつぎて「青き火より赤き火を燃やすものは苦しみ多し」と云いたり。さればこそ彼は肉食を好む猛獣に斯く云いたるならん。人間はかかる苦しみを知らざるにても喜ばざるべからず。常には我、知らずとて多くを語らぬ泰岳は斯く語るを見ても動物の苦痛には深く情けをかけたるならん。是にても人間と生れし喜悦に感謝すべき筈なり。我等先に一言なしをきたる如く動物は魄の代表となるべき一種の引力性を有するものが魂に加わり居りて是によって彼等は特殊の念力をつくり居れど、此念力は人間の念力と異りたる性質を有するなり。かりに人間の念を気光素と見なすならば動物魂の念は光気素と見なして考うれば察するを得るならん。動物魂は一方にのみ偏するによって極端より極端に走るなり。されど人間はさにあらず。例へば事にあたっては生死の区を考へず盲進すれど、人間は分別なしての後ならでは進まざる如きの相違あるなり。分別云々と云へば世人は云うならん。動物にも分別あればこそ己より強しと知らばにげ出すならずやと。斯く思うも一理あり。されど其は分別にあらず。動物魂は生死などは少しも考うることなく又考うる力も組織も有せざるなり。然しながら彼等は恐怖心至って強く肉体を愛するは人間以上の素質を有し、聊かの威圧も直ちに察する本能を有す。然して彼等の神経は鋭敏なり。わけて牛などは屠らるる前夜などは眠らず吠えるとさえ聞きたり。鶏に於てすら屠らるるを予知すと聞きたり。是等は生死を考うるにあらずして肉体の危害を恐れての恐怖心なり。故に己より強きものにはその威圧に怖れて逃げ出すにて分別ありてにはあらず。世人の中にこの種の人はあらざるか。もしありとするならば先づ其人は人間に似たる動物に近き人なり。何となれば其人は魄に欠くるところあるに依ってなり。もし人にして魂のみによって動物にて終るならば永年の苦痛苦悶して得たる人間性は失はれて再び獣類に顛落するの憂目を見んとなす勿れ。世人のよく口にする言葉に彼はかの位置迄進みながら折角の箔ををとしたりと云う言葉より、世人の云う箔とは金箔ならんも、我等は世人に注意するところは折角授けられし人間の持つ大切なる魄を落さざらんことを願うなり。呵々。

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